作詞家・秋元康について振り返ります(前編・おニャン子クラブ1位リストつき)

 先日、秋元康氏が紫綬褒章を受章されました。

 AKB48グループや坂道シリーズなど、女性アイドルグループの歌詞やプロデュースの手法においては大変毀誉褒貶激しい方だと思われます。音楽界に革命を起こした存在であることは間違いないですが、オリコン初登場1位重視主義(これはおニャン子クラブ時代)やいわゆる握手会手法を定着させたことは評価の分かれる部分です。とは言え多大なる実績を残した存在であることは間違いなく、紫綬褒章受章は非常に喜ばしいことです。おめでとうございます。

 ただ秋元氏の作詞能力はそれだけに留まらず、演歌・歌謡曲からパロディーソングまで非常に幅広い物があります。今回は彼が手掛けた様々な作品を、前編と後編に分けて紹介します。

初ヒットは1982年、稲垣潤一「ドラマティック・レイン」

 放送作家から始まった芸能生活、作詞家デビューは1981年。初ヒットは横浜ゴムのCMタイアップで起用された稲垣潤一「ドラマティック・レイン」でした。稲垣さんのブレイク曲でもありますが、秋元氏にとっても知名度を大きく上げるきっかけになった1曲です。稲垣さんへの提供曲は非常に多く、「1ダースの言い訳」「メリークリスマスが言えない」「クリスマスキャロルの頃には」などの代表曲も秋元氏の作品です。また長渕剛にもドラマ主題歌「GOOD-BYE 青春」を提供、彼にとっては「順子」以来のヒット作となっています。

 紅白歌合戦で初めて歌われたのは第35回(1984年)、森昌子「涙雪」でした。シングルとしては「ほお紅」のB面でヒットもしていませんが、この頃から既に演歌も手掛ける形になっています(もっともこの曲は当時チェッカーズへの提供曲が軒並み大ヒットの芹澤廣明作曲でした)。

大ブレイクはやはり1985年

 1985年、この年おニャン子クラブがデビューします。『夕やけニャンニャン』とは特に関係なく、あくまで作詞提供と楽曲プロデュースのみですが、メンバーのソロ作品を含めて全ての楽曲を担当しました。

 またおニャン子以外も1985年には菊池桃子「卒業」「BOYのテーマ」とんねるず「雨の西麻布」小泉今日子「なんてったってアイドル」などヒット曲を連発。同じグループアイドルでは少女隊の楽曲も手掛けていました。

おニャン子クラブ1位獲得曲リスト

 今回秋元氏が作詞したおニャン子クラブ関連のオリコン1位獲得曲を表にしてみました。量は多いですが、正直申し上げると良くも悪くも後世に残っていない楽曲も結構あります。オリコン初登場1位は1980年代前半からアイドル中心に増え始めますが、毎週のように入れ替わり立ち替わりになったのはおニャン子以降です。もっともそれがより顕在化したのは1986年中盤からで、1985年の代表曲「セーラー服を脱がさないで」は週間最高5位止まり。TOP10圏外から1ヶ月以上ランクインするロングセラー推移でした。
 なお高井麻巳子のソロシングルは4作オリコン1位を獲得していますが、表題曲は全て別の作詞家による作品なので表から除外しています。またグループ卒業後の1位曲もリストから外しました。高井さんはグループ解散して間もない1988年5月に秋元氏と結婚。AKB48以降の女性アイドルは恋愛禁止が暗黙のルールと化しますが、もしかすると本人の反面教師による部分もあるかもしれません。
発売日 タイトル 歌手 1位週 次週
順位
オリコン年間順位 備考
1985/9/1 涙の茉莉花LOVE 河合その子 2週 3位 1985年59位 ソロデビュー作
首位獲得は2週目
1986/1/1 冬のオペラグラス 新田恵利 4週 5位 1986年32位 ソロデビュー作
唯一の4週連続1位
1986/1/21 バナナの涙 うしろゆびさされ組 1週 3位 1986年17位 2ndシングル
デビュー曲「うしろゆびさされ組」は最高5位
1986/2/21 じゃあね おニャン子クラブ 1週 3位 1986年23位 3rdシングル
1986/3/1 季節はずれの恋 吉沢秋絵 2週 2位 1986年24位 2ndシングル
デビュー曲「なぜ?の嵐」は最高8位
B面に「会員番号の唄」収録
1986/3/21 青いスタスィオン 河合その子 2週 4位 1986年10位 3rdシングル
2nd「落葉のクレッシェンド」は最高2位
おニャン子関連シングルでは最高売上
3/31卒業後も2作がオリコン1位を記録
1986/4/1 私は里歌ちゃん ニャンギラス 1週 4位 1986年57位 ユニットデビュー作
1986/4/10 恋のロープをほどかないで 新田恵利 2週 2位 1986年22位 2ndシングル
1986/4/21 おっとCHIKAN! おニャン子クラブ 1週 7位 1986年44位 4thシングル
1986/5/2 象さんのすきゃんてぃ うしろゆびさされ組 1週 2位 1986年37位 3rdシングル
1986/5/10 夏を待てない 国生さゆり 1週 2位 1986年29位 2ndシングル
デビュー曲「バレンタイン・キッス」は最高2位
1986/5/21 風のInvitation 福永恵規 1週 5位 1986年58位 ソロデビュー作
オリコン1位獲得はこの曲のみ
1986/6/11 あじさい橋 城之内早苗 1週 5位 1986年74位 ソロデビュー作
オリコン1位獲得はこの曲のみ
演歌のデビュー曲で初登場1位は現在でも唯一
1986/6/21 自分でゆーのも
なんですけれど
ニャンギラス 1週 5位 1986年100位以下 2ndシングル
シングル発売は2作のみ、したがって全シングルオリコン1位を記録
1986/7/16 瞳に約束 渡辺美奈代 1週 6位 1986年46位 ソロデビュー作
1986/7/21 お先に失礼 おニャン子クラブ 1週 6位 1986年69位 5thシングル
1986/8/1 不思議な手品のように 新田恵利 1週 5位 1986年50位 3rdシングル
9/26卒業後も1作がオリコン1位を記録
1986/8/14 ノーブルレッドの瞬間 国生さゆり 1週 4位 1986年53位 3rdシングル
1986/8/27 渚の『・・・・・』 うしろゆびさされ組 1週 2位 1986年35位 4thシングル
1986/9/10 鏡の中の私 吉沢秋絵 1週 5位 1986年100位以下 3rdシングル
9/26にグループ卒業
発売日 タイトル 歌手 1位週 次週
順位
オリコン年間順位 備考
1986/10/8 深呼吸して 渡辺満里奈 1週 5位 1986年65位 ソロデビュー作
1986/10/15 雪の帰り道 渡辺美奈代 1週 8位 1986年70位 2ndシングル
1986/11/1 恋のくえすちょん おニャン子クラブ 1週 6位 1986年100位以下 6thシングル
1986/11/23 技ありっ! うしろゆびさされ組 1週 3位 1987年53位 5thシングル
1986/12/3 あの夏のバイク 国生さゆり 1週 9位 1987年100位以下 4thシングル
1987/1/1 ホワイトラビットからの
メッセージ
渡辺満里奈 2週合算 3位 1987年37位 2ndシングル
1987/1/15 TOO ADULT 渡辺美奈代 1週 2位 1987年52位 3rdシングル
1987/1/21 NO MORE 恋愛ごっこ おニャン子クラブ 1週 3位 1987年83位 7thシングル
1987/2/21 かしこ うしろゆびさされ組 1週 6位 1987年78位 ラストシングル
1987/4/8 マリーナの夏 渡辺満里奈 1週 4位 1987年91位 3rdシングル
なお4thシングルは別の作詞家の作品で1位獲得
1987/4/15 PINKのCHAO 渡辺美奈代 1週 4位 1987年72位 4thシングル
なお5thシングルは別の作詞家の作品で1位獲得
1987/5/7 時の河を越えて うしろ髪ひかれ隊 1週 6位 1987年89位 ユニットデビュー作
おニャン子クラブ解散後も活動継続
1987/5/21 かたつむりサンバ おニャン子クラブ 1週 9位 1987年100位以下 8thシングル
なおラストシングル「ウェディングドレス」は2位止まり
1987/8/31 禁断のテレパシー 工藤静香 1週 5位 1987年59位 ソロデビュー作
解散前ラストのメンバー関連作
解散後も活動継続、多数の作品で1位獲得

おニャン子以外も引き続きヒット、そして名作誕生

 おニャン子クラブと同時進行で、1986年は本田美奈子のシングル曲提供が目立ちます。「1986年のマリリン」「Sosotte」「Oneway Generation」といった代表曲は秋元氏の提供です。ロック路線ではSHOW-YA「水の中の逃亡者」が秋元作品です。ジャニーズは少年隊「デカメロン伝説」シブがき隊にもシングル表題曲の提供があります。またとんねるずも大半の楽曲は秋元氏の提供です。

 やがて1988年、美空ひばりの作品をプロデュースする機会が訪れます。12月に発売されたアルバム『川の流れのように~不死鳥パートⅡ』収録曲は、全曲秋元氏の作詞でした。そこから「ハハハ」がシングルカットされる予定だったところ、ひばりさんの一声で「川の流れのように」になったというエピソードがあります。既に体調が優れない状況であったひばりさんは翌年6月24日に逝去、アルバムは結果的に最後のオリジナル作品となりました。生前最後のテレビ出演の際に歌唱したのもこの曲で、訃報とともにこの曲も広く日本中に知れ渡ります。

 昭和の大スターが平成の始まりとともに世を去る形になりましたが、最後の楽曲を手掛けたのは当時まだ30歳になったばかりの若者でした。それはジャンルに拘らず、積極的に多くの作品を歌ったひばりさんらしい別れだったのかもしれません。同時に、極めて俗っぽい楽曲から国民的歌手の名曲まで手掛ける秋元氏のオールマイティーぶりを象徴する出来事にもなりました。なお参考までに、作曲家・見岳章とのコンビはニャンギラス「私は里歌ちゃん」と同じです。

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