先日、秋元康氏が紫綬褒章を受章されました。
秋元康氏が紫綬褒章 美空ひばりさん「川の流れのように」など幅広い楽曲の作詞を手掛ける #秋元康氏 #紫綬褒章https://t.co/FEkoHV3jyL
— 日刊スポーツ (@nikkansports) April 27, 2022
AKB48グループや坂道シリーズなど、女性アイドルグループの歌詞やプロデュースの手法においては大変毀誉褒貶激しい方だと思われます。音楽界に革命を起こした存在であることは間違いないですが、オリコン初登場1位重視主義(これはおニャン子クラブ時代)やいわゆる握手会手法を定着させたことは評価の分かれる部分です。とは言え多大なる実績を残した存在であることは間違いなく、紫綬褒章受章は非常に喜ばしいことです。おめでとうございます。
ただ秋元氏の作詞能力はそれだけに留まらず、演歌・歌謡曲からパロディーソングまで非常に幅広い物があります。今回は彼が手掛けた様々な作品を、前編と後編に分けて紹介します。
初ヒットは1982年、稲垣潤一「ドラマティック・レイン」
放送作家から始まった芸能生活、作詞家デビューは1981年。初ヒットは横浜ゴムのCMタイアップで起用された稲垣潤一「ドラマティック・レイン」でした。稲垣さんのブレイク曲でもありますが、秋元氏にとっても知名度を大きく上げるきっかけになった1曲です。稲垣さんへの提供曲は非常に多く、「1ダースの言い訳」「メリークリスマスが言えない」「クリスマスキャロルの頃には」などの代表曲も秋元氏の作品です。また長渕剛にもドラマ主題歌「GOOD-BYE 青春」を提供、彼にとっては「順子」以来のヒット作となっています。
紅白歌合戦で初めて歌われたのは第35回(1984年)、森昌子「涙雪」でした。シングルとしては「ほお紅」のB面でヒットもしていませんが、この頃から既に演歌も手掛ける形になっています(もっともこの曲は当時チェッカーズへの提供曲が軒並み大ヒットの芹澤廣明作曲でした)。
大ブレイクはやはり1985年
1985年、この年おニャン子クラブがデビューします。『夕やけニャンニャン』とは特に関係なく、あくまで作詞提供と楽曲プロデュースのみですが、メンバーのソロ作品を含めて全ての楽曲を担当しました。
またおニャン子以外も1985年には菊池桃子「卒業」「BOYのテーマ」、とんねるず「雨の西麻布」、小泉今日子「なんてったってアイドル」などヒット曲を連発。同じグループアイドルでは少女隊の楽曲も手掛けていました。
おニャン子クラブ1位獲得曲リスト
発売日 | タイトル | 歌手 | 1位週 | 次週 順位 |
オリコン年間順位 | 備考 |
1985/9/1 | 涙の茉莉花LOVE | 河合その子 | 2週 | 3位 | 1985年59位 | ソロデビュー作 首位獲得は2週目 |
1986/1/1 | 冬のオペラグラス | 新田恵利 | 4週 | 5位 | 1986年32位 | ソロデビュー作 唯一の4週連続1位 |
1986/1/21 | バナナの涙 | うしろゆびさされ組 | 1週 | 3位 | 1986年17位 | 2ndシングル デビュー曲「うしろゆびさされ組」は最高5位 |
1986/2/21 | じゃあね | おニャン子クラブ | 1週 | 3位 | 1986年23位 | 3rdシングル |
1986/3/1 | 季節はずれの恋 | 吉沢秋絵 | 2週 | 2位 | 1986年24位 | 2ndシングル デビュー曲「なぜ?の嵐」は最高8位 B面に「会員番号の唄」収録 |
1986/3/21 | 青いスタスィオン | 河合その子 | 2週 | 4位 | 1986年10位 | 3rdシングル 2nd「落葉のクレッシェンド」は最高2位 おニャン子関連シングルでは最高売上 3/31卒業後も2作がオリコン1位を記録 |
1986/4/1 | 私は里歌ちゃん | ニャンギラス | 1週 | 4位 | 1986年57位 | ユニットデビュー作 |
1986/4/10 | 恋のロープをほどかないで | 新田恵利 | 2週 | 2位 | 1986年22位 | 2ndシングル |
1986/4/21 | おっとCHIKAN! | おニャン子クラブ | 1週 | 7位 | 1986年44位 | 4thシングル |
1986/5/2 | 象さんのすきゃんてぃ | うしろゆびさされ組 | 1週 | 2位 | 1986年37位 | 3rdシングル |
1986/5/10 | 夏を待てない | 国生さゆり | 1週 | 2位 | 1986年29位 | 2ndシングル デビュー曲「バレンタイン・キッス」は最高2位 |
1986/5/21 | 風のInvitation | 福永恵規 | 1週 | 5位 | 1986年58位 | ソロデビュー作 オリコン1位獲得はこの曲のみ |
1986/6/11 | あじさい橋 | 城之内早苗 | 1週 | 5位 | 1986年74位 | ソロデビュー作 オリコン1位獲得はこの曲のみ 演歌のデビュー曲で初登場1位は現在でも唯一 |
1986/6/21 | 自分でゆーのも なんですけれど |
ニャンギラス | 1週 | 5位 | 1986年100位以下 | 2ndシングル シングル発売は2作のみ、したがって全シングルオリコン1位を記録 |
1986/7/16 | 瞳に約束 | 渡辺美奈代 | 1週 | 6位 | 1986年46位 | ソロデビュー作 |
1986/7/21 | お先に失礼 | おニャン子クラブ | 1週 | 6位 | 1986年69位 | 5thシングル |
1986/8/1 | 不思議な手品のように | 新田恵利 | 1週 | 5位 | 1986年50位 | 3rdシングル 9/26卒業後も1作がオリコン1位を記録 |
1986/8/14 | ノーブルレッドの瞬間 | 国生さゆり | 1週 | 4位 | 1986年53位 | 3rdシングル |
1986/8/27 | 渚の『・・・・・』 | うしろゆびさされ組 | 1週 | 2位 | 1986年35位 | 4thシングル |
1986/9/10 | 鏡の中の私 | 吉沢秋絵 | 1週 | 5位 | 1986年100位以下 | 3rdシングル 9/26にグループ卒業 |
発売日 | タイトル | 歌手 | 1位週 | 次週 順位 |
オリコン年間順位 | 備考 |
1986/10/8 | 深呼吸して | 渡辺満里奈 | 1週 | 5位 | 1986年65位 | ソロデビュー作 |
1986/10/15 | 雪の帰り道 | 渡辺美奈代 | 1週 | 8位 | 1986年70位 | 2ndシングル |
1986/11/1 | 恋のくえすちょん | おニャン子クラブ | 1週 | 6位 | 1986年100位以下 | 6thシングル |
1986/11/23 | 技ありっ! | うしろゆびさされ組 | 1週 | 3位 | 1987年53位 | 5thシングル |
1986/12/3 | あの夏のバイク | 国生さゆり | 1週 | 9位 | 1987年100位以下 | 4thシングル |
1987/1/1 | ホワイトラビットからの メッセージ |
渡辺満里奈 | 2週合算 | 3位 | 1987年37位 | 2ndシングル |
1987/1/15 | TOO ADULT | 渡辺美奈代 | 1週 | 2位 | 1987年52位 | 3rdシングル |
1987/1/21 | NO MORE 恋愛ごっこ | おニャン子クラブ | 1週 | 3位 | 1987年83位 | 7thシングル |
1987/2/21 | かしこ | うしろゆびさされ組 | 1週 | 6位 | 1987年78位 | ラストシングル |
1987/4/8 | マリーナの夏 | 渡辺満里奈 | 1週 | 4位 | 1987年91位 | 3rdシングル なお4thシングルは別の作詞家の作品で1位獲得 |
1987/4/15 | PINKのCHAO | 渡辺美奈代 | 1週 | 4位 | 1987年72位 | 4thシングル なお5thシングルは別の作詞家の作品で1位獲得 |
1987/5/7 | 時の河を越えて | うしろ髪ひかれ隊 | 1週 | 6位 | 1987年89位 | ユニットデビュー作 おニャン子クラブ解散後も活動継続 |
1987/5/21 | かたつむりサンバ | おニャン子クラブ | 1週 | 9位 | 1987年100位以下 | 8thシングル なおラストシングル「ウェディングドレス」は2位止まり |
1987/8/31 | 禁断のテレパシー | 工藤静香 | 1週 | 5位 | 1987年59位 | ソロデビュー作 解散前ラストのメンバー関連作 解散後も活動継続、多数の作品で1位獲得 |
おニャン子以外も引き続きヒット、そして名作誕生
おニャン子クラブと同時進行で、1986年は本田美奈子のシングル曲提供が目立ちます。「1986年のマリリン」「Sosotte」「Oneway Generation」といった代表曲は秋元氏の提供です。ロック路線ではSHOW-YAの「水の中の逃亡者」が秋元作品です。ジャニーズは少年隊「デカメロン伝説」、シブがき隊にもシングル表題曲の提供があります。またとんねるずも大半の楽曲は秋元氏の提供です。
やがて1988年、美空ひばりの作品をプロデュースする機会が訪れます。12月に発売されたアルバム『川の流れのように~不死鳥パートⅡ』収録曲は、全曲秋元氏の作詞でした。そこから「ハハハ」がシングルカットされる予定だったところ、ひばりさんの一声で「川の流れのように」になったというエピソードがあります。既に体調が優れない状況であったひばりさんは翌年6月24日に逝去、アルバムは結果的に最後のオリジナル作品となりました。生前最後のテレビ出演の際に歌唱したのもこの曲で、訃報とともにこの曲も広く日本中に知れ渡ります。
昭和の大スターが平成の始まりとともに世を去る形になりましたが、最後の楽曲を手掛けたのは当時まだ30歳になったばかりの若者でした。それはジャンルに拘らず、積極的に多くの作品を歌ったひばりさんらしい別れだったのかもしれません。同時に、極めて俗っぽい楽曲から国民的歌手の名曲まで手掛ける秋元氏のオールマイティーぶりを象徴する出来事にもなりました。なお参考までに、作曲家・見岳章とのコンビはニャンギラス「私は里歌ちゃん」と同じです。
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