紅白名言集解説・49~宮田から山川へ~


 1974年。これまで白組司会11回・紅組司会2回・総合司会2回を務めた紅白の主・宮田輝アナウンサーが参議院選挙立候補のためNHK退職を発表。直近まで4年連続、総合を含めると12年連続司会を務めていた後任に選ばれたのが、前回まで2年連続総合司会を担当した山川静夫アナウンサーでした。

 Amazonリンクにした『私の「紅白歌合戦」物語』で、山川さんの1974年当時の様子が大変詳しく書かれています。本当に細かいことは実際購入して読んでもらうのが一番良いのですが、ある程度の概略をこれから記しすことにします。

・山川アナウンサーが白組司会に選ばれるまで

 宮田輝アナが退局したのは3月のこと。紅白歌合戦の他に『ふるさとの歌まつり』という全国津々浦々を回る看板番組を担当していましたが、その後任番組『お国自慢にしひがし』の司会を任されたのが山川アナでした。

 また、一昨年からこの年の3月まで『歌謡グランドショー』『歌のゴールデンステージ』司会、その流れで総合司会も同時期2度担当。さらにこちらも宮田アナの後釜として、夏の紅白こと『思い出のメロディー』司会も担当。NHKの歌謡番組司会の経験も相当に積んでいました。本人は『お国自慢にしひがし』ロケで忙しい為あまり実感はなかったようですが、新聞雑誌に多く書き立てられて当時の芸能局では大騒ぎ。ポスト宮田としての流れは素人目から見ても完全に作られていた状況でした。

 11月20日に出場歌手と同時に司会発表。対戦相手の紅組司会は、『思い出のメロディー』でもコンビを組んだ佐良直美さんでした。インタビューでは「宮田さんが蒸気機関車なら、私は山手線でいきたいと思います」と当時話していたようです。そのテンポの良さは、早速初担当の年から発揮されます。

 

・美川・前川・山川

 1974年に山川アナが残した名言は数多くあります。佐良さんとの丁々発止の掛け合いは、オープニングの時点で発揮されていましたが、ここでは白組3番手、三善英史「愛の千羽鶴」の曲紹介で起きた場面を紹介します。

 美川憲一・前川清(当時内山田洋とクール・ファイブ)を引っ張り出し、それぞれにマイクを向け、自分の名前も読み上げます。流れるようなテンポの良さに、思わず会場拍手。ついついもう一度同じやり取りを繰り返した所で、若き日の堺正章が登場。この「あなたサカイ」「わたしシカイ」の掛け合いは、堺さんが白組歌手として出場した1976年まで恒例となり、更には1991年・1992年でお互い総合・白組司会として復活した時も繰り返されました。勿論「私、司会ですけど」が出た瞬間、マチャアキは喜劇役者の父親仕込みのずっこけるリアクションを見せています。

 更に、ここからステージに立つ三善英史さんにふります。彼の横に立っているのは大先輩・三波春夫さんと三橋美智也さん。「三橋です」「三波」「三善」、「わー。三善英史さん「愛の千羽鶴」」。そのまま琴を主体にしたイントロが演奏されて、三善さんが歌い始める流れでした。

 これまでの宮田さんの司会は、三波さんよりも年上で1942年入局というキャリアを持って白組をグイグイ引っ張っていくものでした。そこには親しみやすさとともに、ちょっとした威厳も備わっているように見えました。対して山川さんは、紅白以前から軽妙さとダジャレを持ち味にしていて、自身の担当番組『ひるのプレゼント』初回から盛んに『ひるプレ』と略して当時の放送総局長からお叱りを受けたほど。白組歌手を引っ張り出して”茶化し”も含めたやり取りを見せるのは、おそらく宮田アナでは考えられなかったことだと思います。平成の紅白を見た後に遡って見る分には違和感のないやり取りですが、果たしてこの光景は当時の視聴者にどう映ったのでしょうか。「今年の紅白は随分雰囲気が変わったなぁ」と、感じた人も結構多かったのではないかと思います。

・その後

 山川アナがこの年に残した名言は多々ありますが、これはまた別の機会で書きます。1974年は本編レビューを紅白ブログに書いていますが、こちらでもまた修正の上再アップする予定にしています。

 この美川・前川・山川の並びは大変リズミカルですが、一歩間違えるとハプニングに繋がりそうです。と言うより後年本当にそうなってしまうのですが、これは明日の記事で取り上げることにしましょう。

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