第22回(1971年)NHK紅白歌合戦~その4~

応援3:連続テレビ小説『繭子ひとり』

 白組応援で『繭子ひとり』出演者の一同が登場しますが、加世(朝丘雪路)がいるということで早くも紅組に心が動きそうな雰囲気。そこで加世が一同に合流、南部の方言を喋り始めます。当然ながら彼女は紅組応援、そんな中審査員席にいる繭子(山口果林)に呼びかけます。白組に紅組にと応援を促しますが、「今日は審査員だから、公明正大で無ければだめなんだぁ」と中立の立場。というわけでおかみさんの千代(冨士眞奈美)も紅組に呼びかけ、謙吉(江戸家猫八)や恵吾(山田吾一)も呼応して若い克彦(石橋正次)も服を引っ張られて紅組側へ。というわけで「これじゃ繭子ひとりじゃなくてあたしひとりだよ~」石井均)と一人だけ残されるのでありました。

解説

・連続テレビ小説『繭子ひとり』は1971年4月~1972年3月の1年間放送、平均視聴率は47.4%という高い数字を記録しました。ただ残された映像は杉良太郎が寄贈するまで一切無し。この年は紅白歌合戦・連続テレビ小説・大河ドラマ(『春の坂道』・最終回のみ白黒保存)といったNHKの看板番組の保存状況が極めて悪い年になっています。

・出演者に目を向けると、冨士眞奈美は前年に続き2年連続応援出演。江戸家猫八は初出演ですが別途応援で第24回にも出演、山田吾一は第16回・第18回に続き3回目。石橋正次は翌年第23回に「夜明けの停車場」のヒットで白組歌手として初出場。コメディアンあがりの石井均のみが紅白初出演ですが、ドラマ内における肝心の役どころは不明です。

白9(全体18):舟木一夫(9年連続9回目)

・1963年デビュー 第14回(1963年)初出場
・1944年12月12日生 愛知県一宮市出身
・楽曲:「初恋」(1971/9/25 シングル)
・詞:島崎藤村 曲:若松 甲
・演奏時間:2分28秒

 「繭子の皆さんにも聴いて頂きたいんです。明治のころ、いい詩集が出ました。その中に藤村の初恋があります。まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき。その歌を歌って知ったり、舟木一夫さんです

 「絶唱」「夕笛」に続き紅白では3度目となる文学歌謡、したがって衣装もスーツやタキシードではない和服で決めています。両手でマイクを持ちながら、藤村の残した詩を噛みしめるかのように歌うステージでした。

解説

・9年連続出場となる舟木さんですが翌年は落選。この時期から活動の場が狭まりヒットも少なくなり、自殺未遂も何度か繰り返したとのことです。60年代ブームに湧いた1992年・第43回が次の紅白出場となりました。

・もっとも「初恋」は比較的ヒットした曲で、オリコンによるレコード売上は10万枚以上を記録しています。1968年の集計開始以降、舟木さんのシングルで10万枚を超えたのは「残雪」とこの曲のみです。

・島崎藤村の「初恋」は1897年刊行の『若菜集』に収録、これが世に広く知られるきっかけとなりました。20世紀に入ってからは小説家として活躍、「破戒」「春」「夜明け前」などロマン主義作家の代表として知られています。

 

紅10(全体19):島倉千代子(15年連続15回目)

・1955年デビュー 第8回(1957年)初出場
・1938年3月30日生 東京都品川区出身
・楽曲:「竜飛岬」(1971/10/1 シングル)
・詞:石本美由起 曲:船村 徹
・演奏時間:2分28秒

 「さて本場の津軽三味線に乗って、島倉千代子さん「竜飛岬」をどうぞ~!」

 「初恋」の演奏が終わらないうちに三味線演奏開始、進行に余裕が全く無い様子です。画面左下に10:00のテロップが入りますが、本来ならこの辺りで第2ラウンド終了という段取りだったのかもしれません。というわけでお千代さんの歌う「竜飛岬」は大変聴き応えのある本格演歌。本来ならやはりもっと余裕のある状況で、じっくり聴くのが至高ではないかと感じました。

解説

・津軽三味線社中の演奏がバックに加わるステージは、映像が残っている限りだとこれが最古ではないかと思われます。この手の演出はやはり、1985年以降何度も紅白で歌った細川たかし「望郷じょんから」が著名でしょうか。1975年・第26回の三橋美智也「津軽じょんから節」も大迫力でした。

・竜飛岬は津軽海峡を望む青森県の岬で、1976年に発表された石川さゆり「津軽海峡・冬景色」の2番歌い出しでも登場する有名な観光地です。ただあまりヒットしなかったこともあり、現地にこの曲の歌碑などは存在していないようです。

・この時点における最多連続出場は15回。初出場以来だと彼女とフランク永井、あとは第5回にも出演した美空ひばりも該当。第6回・第7回はTBS(当時はラジオ東京テレビ)で真裏に『オールスター歌合戦』を放送、こちらに出演したNHK紅白に出ない歌手が多く出ました。1956年はひばり・千代子・フランクいずれもそちらに出演のため紅白不出場となっています。

 

白10(全体20):北島三郎(9年連続9回目)

・1962年デビュー 第14回(1963年)初出場
・1936年10月4日生 北海道上磯郡知内町出身
・楽曲:「北海太鼓」(1971/11/20 シングル)
・詞:星野哲郎 曲:島津伸男
・演奏時間:2分41秒

 「いまね、竜飛岬の辺りシベリアおろしで大変寒い頃でございます。あれから海底トンネルでグーーッと将来30分もいくとおたくの方へ行く」「えぇ、ものすごく速いですよあれ。大体30分くらいで」「こういうことですよねー。今度は威勢よくね、お仲間が良いわ北島三郎さんはまたね。どうですかこの仲間。仲間の太鼓の応援を得て、「北海太鼓」を盛大にお願いします!」

 橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦・村田英雄・水原弘といった面々が一斉に太鼓を叩くオープニング。ただ歌に入ると、専門の和太鼓奏者による演奏に変わります。例年以上に威勢の良い歌唱、1コーラスがやや長い分演奏時間もやや多く取られていました。客席からは「日本一!」のコールまで飛ぶ、堂々の内容です。

解説

・竜飛岬から北海道に繋ぐ青函トンネルは1988年に完成、青函連絡船に代わる輸送手段になりました。青森~函館の所要時間はフェリー4時間から鉄道2時間にまで短縮、現在は新幹線と鉄道乗り継ぎで約1時間半にまで短縮されています。

・コンスタントに名曲・ヒット曲を生み出している北島三郎ですが1970年代のセールスは意外に良くなく、1978年「与作」の次は1970年「盃」約15万枚が最大ヒットでした。この「北海太鼓」は意外にもオリコン100位圏外、次の年にトリで歌った「冬の宿」も週間100位を一度記録したのみ。シングル曲が全てコンスタントに売上を記録するようになったのは、むしろ平成以降のことです。

・NHK公開ライブラリで見られる前半部分はこの直前・島倉千代子のステージまでで、以降は三波春夫のステージ途中まで非公開状態となっていました。このステージは北島三郎の紅白歌合戦DVDに映像収録されていますが、色落ちノイズともにかなり酷い状況。テレビで見られる状態にリマスターするまで相当苦心したのではないかと思われます。

 

中間審査~応援合戦

 再び鈴木文弥アナが登場。2回目の中間審査、1回目と合わせた途中経過は紅組41・白組39。白組リードから紅組リードに形勢逆転、紅組歌手が大喜びしています。攻守ところを変えて男性軍先攻と一旦アナウンス。

 ただここで登場したのは紅組のベテランである美空ひばり・雪村いづみ・真帆志ぶきの3名。映画『アニーよ銃をとれ』劇中歌の「ANYTHING YOU CAN DO」を、”男なんかにゃ負けない”というテーマの日本語詞に変えて歌っています。歌詞はともかく、歌声とハーモニーはやはりとんでもなく素晴らしいものがありました。

 白組側の応援?として演奏されるのは札幌冬季大会で使用される「オリンピック・ファンファーレ」自衛隊航空音楽隊による演奏、さらに京華学園女子部鼓隊高山愛子バトンチームによる演舞が加わります。東京オリンピック前年の第14回同様今回も来たるオリンピックに向けて盛り上げモード、アジア初の冬季大会となる札幌五輪に期待が高まるパフォーマンスでした。

解説

・『アニーよ銃をとれ』は1946年アメリカで初上演のミュージカル、日本では1964年初演。当時アニーを演じたのは江利チエミ、元々ここで三人娘揃い踏みという計画でしたが第20回以降不出場となっているチエミさんは辞退。その代役として真帆志ぶきが選ばれたというのが定説となっています。

・1972年札幌オリンピックは2月3日~13日開催。これまで日本の冬季五輪におけるメダルは1枚のみでしたが、札幌大会では日の丸飛行隊がノーマルヒル表彰台独占という快挙を成し遂げています。

・バトンチームについては、なんと高山アイコさんのFacebookに詳しい記載があります。中心となった小原初美は当時ステージ101のメンバーだったとか。なおテロップで「初」の字は車へんに衣表示、これはパソコンの文字で検索しても全く出てきませんでした。

白11(全体21):ダークダックス(14年連続14回目)

・1951年結成・1956年デビュー 第9回(1958年)初出場
・38~41歳・4人組
・タイトル:「雪の讃歌メドレー」
・楽曲1:「白銀は招くよ」(1959年/西ドイツ)
・楽曲2:「白い恋人たち」(1968年/フランス)
・演奏時間:2分21秒

 「いよいよ冬季オリンピックも迫りました。ダークダックスの皆さん、「白銀は招くよ」

 ラフな上着と白ズボンで揃えて冬を題材にした映画主題歌を2作。彼らが世に出たのはロシア民謡なので冬の名曲との親和性は非常に高く、ここでこれらの曲を歌うにはこれ以上のない人選です。「白銀は招くよ」から「白い恋人たち」で聴かせて、また「白銀は招くよ」に戻る構成でした。バトンチームや鼓笛隊・自衛隊の面々も引き続き残ってステージを盛り上げています。

解説

・『白銀は招くよ!』は1959年10月に西ドイツで公開されて同年日本の洋画興行収入ランキング10位を記録、『白い恋人たち』は1968年グルノーブルオリンピックの記録映画。1980年代までは紅白歌合戦で、懐かしい洋画の主題歌が歌われる機会が時折ありました。

・ダークダックスはこの年「花のメルヘン」が15万枚以上レコードを売り上げる大ヒット、日本レコード大賞編曲賞も受賞しました。したがって冬季五輪の企画が無ければ、おそらくスムーズに「花のメルヘン」を選曲していたものと思われます。

・彼らも連続出場はこの年でストップ、以降紅白出場はデビュー20周年の第27回(1976年)のみに留まります。平成以降も長く活躍しましたが病気・高齢などもあって2011年に活動休止。2023年にゾウさんこと遠山一が逝去したことによりメンバー全員鬼籍に入る形になっています。

 

札幌オリンピック選手村から中継

 「ステージ101」レギュラーの泉朱子が登場。札幌オリンピック選手村からの中継ですが、赤い上着に短い白スカートという衣装があまりにも寒そうです。札幌は全員紅組応援のようですが、横から登場したのは同じく「ステージ101」の黒沢裕一。紅組を裏切っての白組応援ということで、泉さんに大きな雪のかたまりを頭の上に乗せられました。大変仲が良さそうです。

 一方東京宝塚劇場ではオリンピック・コンパニオンのみなさんが6人登場。紅組応援のメッセージを外国語で伝えますが、やはり日本語に訳さないと分からない模様。合唱隊・通訳・競技の役員などが揃う中で、次の曲の紹介に入ります。

 

解説

・1970年~1974年まで放送された『ステージ101』は当時の人気番組、前年の紅白では番組内のグループ・ヤング101のパフォーマンスもあったようです。放送が始まる直前の第20回紅白でも出演がありました。ただ番組から有名になった「涙をこえて」「怪獣のバラード」は、意外にも紅白で過去に一度も歌われていません。

・1971年大晦日の札幌地方の気温はマイナス1~2℃。雪も降っていない様子で、他の年と比べると一応そこまで寒くない年でした。

紅11(全体22):トワ・エ・モワ(2年連続2回目)

・1969年デビュー 第21回(1970年)初出場
・21~23歳 神奈川県横須賀市・愛媛県西条市出身
・楽曲:「虹と雪のバラード」(1971/8/25 シングル)
・詞:河邨文一郎 曲:村井邦彦
・演奏時間:2分39秒

 「それじゃここでですね、NHKが作りましたオリンピックの歌を聴いていただこうと思います。トワ・エ・モワのおふたり、「虹と雪のバラード」、どうぞ!」

 コンパニオンの6人が歌う2人を囲み、階段上ではずっと椅子に座っていたスクールメイツの皆さんがポンポンを持ちながらダンス。原曲より速いテンポながらもややゆったりと聴こえるアレンジ、特にピアノの音色がこの紅白ならではのオリジナル感を高めています。この年トワ・エ・モワに限らず再三にわたってNHKで流れ続けた「虹と雪のバラード」、まだ2回目の出場ですが堂々のフルコーラス歌唱。

解説

・「虹と雪のバラード」が『みんなのうた』で最初にオンエアされたのは1971年2月のこと。そこから各社レコード化、トワ・エ・モワ歌唱版がもっともヒットしましたが、この紅白の出場歌手ではピンキーとキラーズもシングルレコードとして発売しています。

・例のごとく公式に映像は残っていませんが視聴者からの寄贈があり、2012年に『みんなのうた発掘スペシャル』で41年ぶりに再放送されています。

・当然ながら札幌オリンピックが開催された翌年2月まで続くロングセラーになりましたが、その後のヒットが続かなかったこともあって第23回はまさかの落選。ユニットも1973年早々に解散しますが、長野オリンピック前年の1997年に再結成して現在に至ります。

 

応援4:コント55号&ザ・ドリフターズ

 萩本欽一がコーチとして登場、札幌冬季オリンピック優勝を目指して選手の特訓。早々にどつく欽ちゃん。助手の坂上二郎「チーコさん」「コーチから読むんだ」と小ボケをかました後、スキー選手に扮したリーダー以外のザ・ドリフターズも登場。ですが1番の加藤茶は重装備、2番の仲本工事に至っては覆面マスクを被ってます。

 まずは直滑降の練習、ポーズを取ってもらいます。1番のポーズがおかしく、2番が笑ってて、3番の高木ブーは腹が出てて、4番の荒井注は直角に足を広げた状態。欽ちゃんが竹刀で次々にツッコミを入れています。

 というわけで、外国からミンチョロゲッタホンデレケッポ先生たる者を召喚。要はいかりや長介であり、胸には「師範」と書かれたゼッケンをつけています。スキーを滑る以前のことをやってもらうという流れで、まずは山を登る訓練。足に角度をつけて、手を前に出して、ピッケル代わりに歯を出して動いてもらいました。次はなんでもかんでも「白かった」と言ってもらう訓練。「お山に雪がいっぱい」「白かった!」「おじいさん、頭が白髪で」「白かった!」「南極のクマは氷のように」「白かった!」「夕焼け雲は赤かった!」。仲本工事がオチをつけて、無事いつも通りコント終了。解散する間にいかりやが紅組歌手陣に弁解しますが、すぐに気づいたメンバーがとっ捕まえて白組側に下げるというオマケもついています。

解説

・コント55号は5回、ザ・ドリフターズは6回昭和の紅白歌合戦に出場していますが、番組中一緒にコントしたのはおそらくこの回のみです。なお第19回(1968年)ではいかりや長介・植木等・三木のり平の3人でコントする場面もありました。

・1971年大晦日の札幌地方の気温はマイナス1~2℃。雪も降っていない様子で、他の年と比べると一応そこまで寒くない年でした。

白12(全体23):菅原洋一(5年連続5回目)

・1958年歌手デビュー、第18回(1967年)初出場
・1933年8月21日生 兵庫県加古川市出身
・楽曲:「忘れな草をあなたに」(1971/11/10 シングル)
・詞:木下龍太郎 曲:江口浩司
・演奏時間:1分56秒

 「一生懸命でございます。一生懸命歌い続けてる男が白組男性軍におります。アルゼンチンでも大変な評判を呼んだという、さあ、洋一さん。菅原さん!」「この人は面白いんです。古い自動車を買う趣味がありましてね、古い大きい車を買おうっていうんで。なんかぶつかった時その方が安全だからという注意深い人です」

 タキシード姿の正装で2コーラス、朗々と歌い上げるステージでした。それにしても冒頭の曲紹介、なぜこんな内容になったのか大変に謎です。間奏では客席に座る指揮者の岩城宏之が映るシーンあり、観客と一緒に笑顔で拍手していました。

解説

・「忘れな草をあなたに」は1963年にコーラスグループのヴォーチェ・アンジェリカがリリースしたのが最初、この年に菅原洋一版と倍賞千恵子版がヒットしました。紅白では菅原さんが第35回でも歌唱、この時は100人近い女声コーラスをバックに歌い上げています。

・作詞を担当した木下龍太郎は後年水森かおりが歌うご当地ソングのヒットが著名になりますが、作詞家として最初にヒットした曲はこの曲でした。

 

 

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