応援1:ザ・ドリフターズ
紅組歌手が大きな提灯や団扇を持って行進。キラーズや雪村いづみに真帆志ぶきが目立っていますが、そこに神輿を担いだザ・ドリフターズの面々が衝突。白組歌手と一緒に紅組を押し切ろうとします。やがて目的は白組応援から「リーダーを潰せ!」「絶対に潰せ!」に変更。それに気づいたいかりや長介が怒り、あらためて全員整列させて白組応援の音頭を取ります。
あまり格好よくない体操のような動きで応援しようとするリーダー。他の4人は一旦それに従いますが、リーダーが背中を向けた瞬間サボりモードに入ります。いかりやさんは張り切って横に大きく動いていますが、再びメンバーの方に向いた瞬間のみサボっていた4人はバッチリ手の動きを合わせます。2回ゴマカシは成功しましたが、直後また振り向くと気づかれて失敗。4人は慌てて舞台袖に逃げる…というコントでした。
解説
・ザ・ドリフターズはこの時期紅白応援の常連で、第18回(1967年)以降第25回(1974年)までほとんど毎年出演しています。ただ前回第21回(1970年)は加藤茶が交通事故を起こして出られず。「ドリフのズンドコ節」が年間2位の大ヒットを記録していたので、本来ならば歌手として出場する話もあったようです。
・この年もレコードは「誰かさんと誰かさん」がヒット、紅白出場でも遜色ない売上を記録していました。先輩格のハナ肇とクレージーキャッツは応援に限らず歌でも大活躍でしたが、ドリフが紅白で歌うのは第52回(2001年)まで待つことになります。
紅6(全体11):加藤登紀子(初出場)
・1966年デビュー
・1943年12月27日生 満州国ハルビン市出身
・楽曲:「知床旅情」(1970/11/1 シングル)
・詞曲:森繁久弥
・演奏時間:2分6秒
「北海道って言いますと思い出しますのがこの歌でございます。大変に素晴らしい歌、わたくしあの一言ここで俳句言おうと思いましたけども音楽が出てしまいました。加藤登紀子さん「知床旅情」をどうぞ」
突然の段取り変更にうまく対応するチータが高い対応力を見せています。スリーフィンガーの動きでギターを弾きながら歌うステージですが、演奏はそれよりも後ろのピアノが目立っています。1971年を代表する大ヒット曲ですが、端折られた曲紹介や明らかに速いテンポも含めて思いのほかあっさりしたステージという印象もありました。
解説
・加藤登紀子は「知床旅情」以前にも実績があり、「赤い風船」で日本レコード大賞新人賞、「ひとり寝の子守唄」では同じく歌唱賞を受賞しています。特に後者はオリコンによると20万枚以上の売上、これで紅白出場でも不思議ではないヒットでした。
・「知床旅情」は1971年を代表する大ヒットで、レコード売上は100万枚以上を記録しました。作詞作曲クレジットにある通り元々は森繁久彌の持ち歌で、1965年にレコード化される前の1962年・第13回の紅白で披露しています。彼女もまた19年後の第41回、1990年の紅白でふたたびの歌唱がありました。
・現在も長く第一線で活躍している彼女ですが、次の紅白出場は18年後の第40回。3回のみの出演は実績を考えるとやや少ないような気もします。
白6(全体12):デューク・エイセス(4年連続9回目)
・1960年デビュー、第13回(1962年)初出場
・32~37歳・4人組
・タイトル:「にっぽんのうた」から
・楽曲1:「いい湯だな」(1966/2/XX シングル)…3年ぶり2回目
・楽曲2:「女ひとり」(1965/8/XX シングル)
・楽曲3:「筑波山麓合唱団」(1970/4/XX シングル)…2年ぶり2回目
・詞:永 六輔 曲:いずみたく
・演奏時間:2分28秒
「北海道も結構です。関東もまたいいところです。審査員に浪花家辰造さんがいらっしゃる、どうもありがとうございます。辰造さんは確か前橋だったと、そうですね。上州名物というとどういうことなります?」。「まあ言いたかないけどね、かかあ天下にからっ風。それからいい湯がありますな。温泉。」「温泉でしょ?「いい湯だな」あたりからいきましょうか。デューク・エイセスの皆さんの「にっぽんのうた」です」
昨年で日本全国47都道府県をコンプリートした『にっぽんのうた』ですが、今回はその中から3曲歌唱。群馬県を題材にした「いい湯だな」では、バリトンの谷さんが頭にタオルを乗せて歌います。歌手席では尾崎紀世彦とアイ・ジョージがじゃれ合ってるシーンが映りました。
京都を題材にした「女ひとり」は、セカンドテナーを担当する吉田さんのソロが美しく響き渡ります。発表された1965年はなぜか紅白に出られなかった年、めでたく初歌唱です。最後は2年前の紅白が記憶に新しい「筑波山麓合唱団」、短縮版でありますがその分踊りやらジャンプやらがパワーアップしています。白組歌手が中に入っているであろうカエルの着ぐるみ3体も登場しますが、時間が無いようで今回は紹介する間もなく次のステージに入ってしまいました。
解説
・『にっぽんのうた』シリーズは1966年から1970年にかけて次々発表されましたが、実際の表記は『にほんのうた』が正しいようです。これ以前の紅白では第17回(1966年)で「君の故郷は」(東京)、第19回で「いい湯だな」(群馬)、第20回で「筑波山麓合唱団」(茨城)が披露されています。「いい湯だな」はザ・ドリフターズの歌唱も有名ですが、元祖は草津・伊香保・万座・水上を歌ったこちらの方です。
・ダークダックスとともにコーラスグループとして大活躍しましたが、翌年はまさかの落選。この次の出場は平成4年・1992年の第43回で、いずみたく追悼で「見上げてごらん夜の星を」の歌唱でした。なおその間トップテナーの谷口安正が1990年大晦日に急逝、当時の新メンバーである飯野知彦が後任として出演しています。
紅7(全体13):青江三奈(4年連続5回目)
・1966年デビュー、第17回(1966年)初出場
・1941年5月7日生 東京都江東区出身
・楽曲:「長崎未練」(1971/6/5 シングル)
・詞:吉川静夫 曲:渡久地政信
・演奏時間:2分28秒
「さて紅組はハスキーな歌声で世の男性を悩ませております。青江三奈さん、「長崎未練」をどうぞ!」
階段を降りての登場ですが、花壇にはスクールメイツの面々が座っております。賑やかなデューク・エイセスのステージにはよく合っていますが、ムーディーな演歌には全く釣り合っていない光景に見えます。ただ前回トリ前前々回トップバッター、今年レコードセールスが急減したとは言えこんな中途半端な曲順で登場したことに個人的には驚きです。光る緑のドレスで2コーラス、ステージは貫禄の内容でした。
解説
・「池袋の夜」はオリコン週間最高1位のミリオンヒット、「国際線待合室」は大阪万博の時勢にも乗って最高4位で約50万枚のヒットでしたが、この年は10万枚も売れない大不振。更に言うとこの年以降10万を超えるセールスは全く出なくなりました。一番売れたこの「長崎未練」でも週間48位、この時期特に女性歌手は年が変わると急に売れなくなるケースが続出しています。
・したがって前年まであった紅組トリの話はこれ以降全く出なくなってしまいましたが、連続出場は第34回(1983年)まで継続。それだけ高い実力があったとともに、コンサートやショーなどの集客力も確かだったのではないかと推測します。
白7(全体14):五木ひろし(初出場)
・1965年デビュー(松山まさる名義)、1971年再デビュー
・1948年3月14日生 福井県三方郡美浜町出身
・楽曲:「よこはま・たそがれ」(1971/3/1 シングル)
・詞:山口洋子 曲:平尾昌晃
・演奏時間:2分3秒
初出場の五木さんと登場する宮田アナ、母親からの言葉がテープで流れます。「夢じゃないかしら…」という言葉をそのまま曲紹介にも流用。「お母さんは夢じゃないかしらと思ってらっしゃいます。期待に応えて精一杯歌ってください。指揮は平尾昌晃さんです」。
作曲を担当した平尾昌晃が指揮者として登場、白組歌手として出演した第13回(1962年)以来9年ぶりです。初出場の五木さんは勿論ですが平尾さんにとっても出世作の一つになりました。ただ演奏と指揮棒を持つ手の動きが全然合っていないのが気になります。
真っ白な衣装で決めた五木さんは高音もそうですが、Aメロの低音の上手さが特に光ります。全日本歌謡選手権10週連続チャンピオンという実績を残したの再デビュー、そこから大ヒットしたことがあらためて頷ける歌唱力の高さ。今後の歌謡界の中心に君臨するのは、彼になるのかもしれません。
解説
・その後五木ひろしは第71回(2020年)まで、紅白歌合戦史上唯一の50回連続出場を果たして勇退。数々の大記録を打ち立てましたが、連続出場とともにもっともアンタッチャブルなのはやはり50回中39回にわたって新曲を紅白で歌ったことではないかと思われます。また曲順も翌年以降はほぼトリもしくはその付近の終盤に集中、次に21時台で歌ったのは38年後の第60回(2009年)でかなり後になります。
・それ故に持ち歌の再歌唱も他の歌手と比べてブランクは長く、「よこはま・たそがれ」が再び歌われたのは山口洋子が逝去した2014年・第65回。43年のブランクは当時の史上最長記録でした(現在は郷ひろみ「男の子女の子」の48年が最長)。
・平尾昌晃は第11回(1960年)~第13回まで3年連続白組から出場、当時はロカビリー歌手として大人気でした。作曲家に転向してヒットが出始めたのは1966年、さらに第29回(1978年)では畑中葉子とのデュエットで16年ぶりに歌手として出場。第49回・第50回は「アメリカ橋」を提供した山川豊の応援、第57回からは逝去する前年の第67回(2016年)までエンディング「蛍の光」指揮担当。直接紅白に携わった回数は非常に多いです。
紅8(全体15):小柳ルミ子(初出場)
・1971年デビュー
・1952年7月2日生 福岡県福岡市出身
・楽曲:「わたしの城下町」(1971/4/25 シングル)
・詞:安井かずみ 曲:平尾昌晃
・演奏時間:2分4秒
五木さんの指揮を担当した平尾さんを紅組に引っ張り出すチータ。続いての曲も彼の提供ということで、白い指揮を赤に持ち替えて指揮してもらいます。
「今年はいろんな新人賞をもらいました。ルミ子ちゃんのお母さんは今日はどちらですか?」「えっ?」「ルミ子ちゃんのお母さんは今日はどちら?」「福岡で見てます」「福岡で、テレビの前で。ではお母さんのことを思いながら一生懸命頑張って歌ってちょうだい。「わたしの城下町」です」
階段を降りるルミ子さんとチータが向き合ってトーク、そのまま舞台の真ん中にエスコートします。1971年でもっともヒットした叙情のある「わたしの城下町」を2コーラス、初々しいながらも見事な歌声を披露。こちらも1970年代を牽引する国民的歌手になる予感を秘めた素晴らしい内容でした。
解説
・小柳ルミ子もこの後18年連続出場、しかも同じ曲を紅白で2回歌わないという快記録も保持しています。もっともこの曲にあるような清楚な雰囲気は、1980年辺りになると完全に払拭されて大人の魅力になっていました。
・「わたしの城下町」は年間1位のミリオンセラー、その次のシングルが「お祭りの夜」。翌年以降は「雪あかりの町」「瀬戸の花嫁」「京のにわか雨」という具合に、1974年辺りまで日本の叙情的風景を感じさせるようなヒット曲が続きます。
応援2:コント55号
「わたしの城下町」を歌いながら登場するお殿様・萩本欽一と家老・坂上二郎。欽ちゃんは3年前の応援同様かなりの外しっぷりですが、二郎さんは見事なまでの美声。おかげで「私の立場がないじゃない」と早々にどつく欽ちゃん。「私の程度に合わせなさい」という命令のもとに歌う二郎さんは、欽ちゃんのツッコミで言うと「気違いじゃないんだよ!」。そこから「(殿様に)来年は是非花嫁などを貰って頂きたい」という話に展開、襖の小道具を使って花嫁探し。客席は「大したのおらんの」「おばちゃんばっかりだ」「(2階は)期待外れ」、紅組歌手席は開けた先がキラーズということもあって「あっ、お化け」。「なんてことをおっしゃいますか!中には新しい方だっていらっしゃるかもしれません」と二郎さんがフォローしますが、実際に見た後は「帰りましょう」。花嫁探しは見事失敗、あえなく白組側に戻るコント55号の2人でした。
白8(全体16):はしだのりひことクライマックス(初出場)
・1971年デビュー
・??歳~26歳・4人組
・楽曲:「花嫁」(1971/1/10 シングル)
・詞:北山 修 曲:端田宣彦、坂庭省悟
・演奏時間:2分22秒
「花嫁の歌ならこちらの番です。はしだのりひことクライマックスの皆さん」
白いドレスで歌うのが藤澤エミ、ギターを弾きながらコーラスをするのが中嶋陽二と坂庭省悟、赤いセーターでひたすらハモリを担当するのがはしだのりひこ。イントロ・間奏のリズムが原曲と比べて少し変化を持たせています。女性が白色・男性が赤色をメインにしているのがなかなか妙な印象。歌はパフォーマンスで聴くとさらに名曲といった具合で、見事な内容でした。
解説
・はしだのりひこはザ・フォーク・クルセダーズのメンバー、解散後は次々にグループを結成しては解散を繰り返しました。1969年に「風」が大ヒットしたはしだのりひことシューベルツはメンバーの急死により1年半で解散。クライマックスも1972年初頭に活動が途絶え、同年にはしだのりひことエンドレスを結成するという具合です。
・「花嫁」は1971年年間7位を記録する大ヒット、週間では1位も獲得しました。同じフォークルの北山修が作詞を担当、さらに同じく加藤和彦とデュエットした「あの素晴らしい愛をもう一度」も1971年を代表する名曲として歌い継がれています。
・「戦争を知らない子供たち」「恋人もいないのに」「翼をください」、1971年は「花嫁」以外にも後世に残るフォークソングの名曲が多く誕生した1年でした。「翼をください」は誰もが知っている名曲ですが、紅白歌合戦では第49回(1998年)のスポーツヒーローショーでサビが一度だけ歌われたのみ。意外なほど歌われていない楽曲になっています。
紅9(全体17):藤 圭子(2年連続2回目)
・1969年デビュー、第21回(1970年)初出場
・1951年7月5日生 北海道旭川市出身
・楽曲1:「みちのく小唄」(1971/6/5 シングル)
・詞:石坂まさを 曲:野々卓也
・楽曲2:「港の別れ唄」(1971/7/25 シングル)
・詞:有馬三恵子 曲:内山田洋
・コーラス:内山田洋とクール・ファイブ
・演奏時間:2分40秒
「前川さんね、ずいぶん病気なさったんでしょ?あの、どうですか?」「だいぶいいです…」「そうですか。今日はテレビの前で圭子ちゃんが歌うの一生懸命応援してらっしゃるわけね。紅組応援ですね。頑張って歌ってくださいよ!「みちのく小唄」、藤圭子さんです。頑張ってね!」
夫である前川清を心配するとともに紅組の応援を取り付けるチータ。東北6県を歌う「みちのく小唄」、本来なら4コーラス歌うと思われましたが青森と北上で早々に終了。直後に前川さんを除く内山田洋とクール・ファイブのメンバーが登場、本来白組で歌う予定だったと思われる「港の別れ唄」を代わりに披露。思わぬサプライズステージになり、客席や紅組歌手席から大きな拍手が巻き起こりました。今回の紅白を象徴する名場面です。
解説
・前川清が急病で入院したのは12月18日のこと。代役にフォーリーブスを選出、グループのコーラス5人は結果的に紅組から出場する形になりました。
・内山田洋とクール・ファイブは引き続き1972年に「この愛に生きて」、1973年に「そして、神戸」を大ヒットさせますが、ペナルティなのか同じムード歌謡の鶴岡雅義と東京ロマンチカを優先したのでしょうかその2年は紅白出場せず。次の出場は3年後の第25回(1974年)まで待つ形となります(東京ロマンチカは第24回まで連続出場)。
・藤圭子は前年のヒットが凄まじく、「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」の2作でオリコン18週連続1位という状況。一方この1971年は年間50位に入るシングル無しで週間も「さいはての女」の最高8位がやっと、出場ラインには十分達しているものの売上急落が非常に目立った年でもありました。
・前川さんとの結婚生活も長くは続かず、早くも翌年に離婚。宇多田ヒカルの母親としても有名な藤圭子ですが、宇多田照實との結婚は一度引退した後に藤圭似子の名前で活動していた1982年のことです。
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