紅12(全体24):由紀さおり(3年連続3回目)
・1965年デビュー 第20回(1969年)初出場
・1948年11月13日生 群馬県桐生市出身
・楽曲:「初恋の丘」(1971/11/1 シングル)
・詞:北山 修 曲:渋谷 毅
・演奏時間:2分23秒
「セキドウチョッカ ミナミジュウジセイガササヤキマシタ コトシモアカノカチ アカグミガンバレ タイヨウマル ウミノワコウド 139メイイチドウヨリ」
「それではいつも美しい声で歌ってくれます、由紀さおりさん「初恋の丘」をどうぞ」
電報を読み上げてからの曲紹介。普段の紅白ならもう少し紹介するところですが、今回は1通読み上げた後そそくさと演奏開始、余裕がありません。曲紹介が示す通りの美しい歌声を披露する由紀さんのステージも原曲よりかなりテンポ速め、とにかく忙しいステージでした。
解説
・「夜明けのスキャット」「手紙」が連続して50万枚以上を売り上げる大ヒットを記録した2年と比べると、この年のシングルは2万枚売り上げるのがやっと。青江三奈や藤圭子などもそうですが、1971年は突如レコードセールスを落とす歌手が続出しています。
・北山修作詞の歌唱曲はこの年3曲。阿久悠の4曲に続く数で、石本美由起・岩谷時子と同数です。ただ彼が作詞した紅白歌唱曲は他の年に全く無く、作詞家としてはこの年だけ際立った結果となっています。
・電報はカタカナのみなのでこのレビューでもあえてそう表記していますが、1988年以降徐々に平仮名・漢字も使えるようになります。もっともその頃には電報自体使用されることが少なくなり、紅白でも例えば第40回(1989年)では南極観測隊からのお便りがファックスに変化していました。
白13(全体25):フォーリーブス(2年連続2回目)
・1968年結成・デビュー 第21回(1970年)初出場
・18歳~22歳・4人組
・楽曲:「地球はひとつ」(1971/11/1 シングル)
・詞:北 公次 曲:都倉俊一
・演奏時間:2分6秒
「シログミマケルナ インドヨウジョウハルカニ ワタシタチモガンバッテルワ トウキョウマルジョシセンインイチドウ」
「キタコウジサマ オリモマサオサマ エギトシオサマ アオヤマタカシサマ オオサカノファンヨリ」
「中身は何にもないんでございます。熱狂的なファンはこういうもんでございますね。フォーリーブスの皆さんです。「地球はひとつ」!」
マンモスタンカーで働いている女性と熱狂的なファンからの祝電を紹介。倍速かと思うくらいの超速テンポですが、ダンスを披露するという点を考えるとむしろこの方が良いのでしょうか。間奏では北公次が超絶アクロバティックなバク宙パフォーマンス、これは間違いなく紅白歌合戦始まって以来のことでしょう。代役とは全く思えない、非常にインパクトのあるステージでした。
解説
・熱狂的なファンも多くいるフォーリーブスですが、意外なことにこの年は内山田洋とクール・ファイブに代わる代役で当初は落選。したがって前川清が病気に倒れていなければ、翌年以降も紅白に出られなかった可能性はあります。
・まだハンドマイクさえも一般的で無かった時代、この年に使用したマイクはスタンドマイク2本でした。それでも前年初出場の際は1本のマイクを4人で共用、間奏以外ダンスどころでは無かったようです。なお第23回以降は1人1本ずつマイクが使えるようになっています。
・既に1960年代で歌中にダンスを披露した歌手もいますが、バク宙を披露したのは間違いなくこの年の北公次が初めてです。ジャニーズ事務所の後輩だと、例えば初出場した際の少年隊などもいますが振り返ると歴代紅白でもレアなパフォーマンスのような気がします。
紅13(全体26):朝丘雪路(5年ぶり10回目)
・1958年歌手デビュー 第8回(1957年)初出場
・1935年7月23日生 東京都中央区出身
・楽曲:「雨がやんだら」(1970/10/21 シングル)
・詞:なかにし礼 曲:筒美京平
・演奏時間:2分18秒
「ちょっとひとつ、トンボ切ろうかと…」「ちょっと、およしなさいって。骨折るといけないから。大事な体なんだから、紅組が勝つまでは。」「ええ、それは一生懸命…」「とにかくさ、あちらかわいらしいでしょ。こちらやっぱりさ、紅組ですからしっとりいきましょうよ女性らしく」「じゃあお姉さん、例の歌ですか?」「アハン」「アハン、「雨がやんだら」、朝丘雪路さんお願いします」
いまやすっかり『11PM』の司会でもお馴染み、チータとのやり取りは完全に朝丘さんが押す展開でした。5年ぶりの紅白歌合戦、芸能界における立ち位置も曲そのものも過去9回とは全く異なります。ただステージは曲紹介で強調していた色気よりも、低音を主体とした歌の上手さの方が印象的でした。音割れしそうなほどの声量も、これまでの紅白とは一味違う迫力。歌手・朝丘雪路の素晴らしさを余すこと無く伝える名ステージです。
解説
・番組中盤は音声映像ともに前半と比べるとかなり良くなく、音割れも現存する保存状況に起因している可能性は高いです。それでも第14回・第17回の歌唱時と比べて、ヒット曲であることを抜きにしても相当な存在感だったと感じたのでこういう表記にしている次第。
・朝丘雪路が『11PM』のレギュラーになったのは1966年、金曜日ホステスとして1982年までの長きにわたり出演していました。また『夜のヒットスタジオ』も1974年度の1年のみですが司会を担当。女優以外の実績も多くあります。
・歌手になる前は宝塚歌劇団出身、奇しくもこの年初出場の真帆志ぶきと同期。ただ所属期間は1952年~1955年で短め。紅白歌合戦は第8回初出場、こちらは島倉千代子と同期です。
白14(全体27):ヒデとロザンナ(2年連続2回目)
・1968年結成・デビュー 第21回(1970年)初出場
・21~29歳・2人組 東京都・イタリア出身
・楽曲:「望むものはすべて」(1970/10/21 シングル)
・詞:橋本 淳 曲:筒美京平
・演奏時間:2分14秒
「「雨がやんだらお別れなのね」なんて大変気の毒な歌でございましたけれども、男性は明るい方でまいりますよ。さっき巫女をやりましたロザンナ、味噌汁が大好きというイタリー娘ですけれども、ヒデと一緒に「望むものはすべて」」。
宮田アナが喋り終わらないうちに演奏開始、僅かに歌い出しと曲紹介も被ってマイクのハウリングも発生します。今回の紅白における進行の大変さがあらためて分かる場面ですが、ヒデとロザンナのステージはノリの良さとハモリの上手さが大変良い感じに決まってます。後ろでメキシカン風なパーカッションで応援するのは堺正章、坂本九、アイ・ジョージ、菅原洋一、尾崎紀世彦。マチャアキは間奏で変な踊りも披露するテンションの高さでした。
解説
・ヒデとロザンナの2人はその後1975年に結婚、以降もユニットでの活動は続きます。ヒデこと出門英は作曲家としても活躍、小柳ルミ子「星の砂」が代表作ですが、47歳の若さで逝去。
・外国人のユニットといえば、この年はヘドバとダビデ「ナオミの夢」が大ヒットしました。たださすがにイスラエルのグループということもあり、日本の紅白歌合戦出場の話は無かったようです。
紅14(全体28):雪村いづみ(6年ぶり9回目)
・1953年デビュー 第5回(1954年)初出場
・1937年3月20日生 東京都目黒区出身
・楽曲:「涙」(1971/3/XX シングル)
・詞:藤田敏雄 曲:中村八大
・演奏時間:2分18秒
「紅組も国際的スターをお迎え致します。貫禄十分・雪村いづみさん、「涙」をどうぞ」
アメリカでの生活で紅白に出られない年が続きましたが、世界歌謡祭の実績を引っ提げて6年ぶり復活の雪村さん。こちらも以前は洋楽ポピュラーソングをずっと紅白で歌ってきましたが、今回は初の日本オリジナル曲です。歌唱力の高さはこれまでのステージや楽曲も既に実証済みですが、久々に紅白で聴くと格の違いまで感じます。ラララ…から始まる終盤は完全に鳥肌モノ、圧巻という言葉では全く足りないほどの神がかりなステージでした。
解説
・雪村いづみは9回目の出場ですが、テロップでは(10回出場)とありました。第7回(1956年)に急病で当日辞退したことがあり、その回数も含めているという形になります。なお当時は盟友・江利チエミが彼女の分の薔薇も胸につけて歌っています。
・「涙」は世界歌謡祭の第1回歌唱グランプリ受賞、初代グランプリは先述したヘドバとダビデ「ナオミの夢」でした。この音楽祭は1970年代から1980年代まで多数のアーティストを輩出、上條恒彦・中島みゆき・ツイスト・クリスタルキングなど大物の名前もズラリ並びます。
・渡米で出られない年や病欠もあり、当時の4回目カムバックは歴代史上最多となる記録でした。その後2部制解禁・盟友の美空ひばりが逝去した1989年・第40回に「愛燦燦」で18年ぶり5回目の復帰となっています。
白15(全体29):アイ・ジョージ(12年連続12回目)
・1953年デビュー、1959年再デビュー 第11回(1960年)初出場
・1933年9月27日生 香港出身
・楽曲:「自由通りの午後」(1971/1/1 シングル)
・詞:松本 猛 曲:田中唯士
・演奏時間:2分25秒
「…ある男性には大きな魅力を感じます。行動力の人、アイ・ジョージさん「自由通りの午後」」。
ギター弾き語りの洋楽メイン、時々「硝子のジョニー」のような歌謡曲も歌ってきた紅白のアイ・ジョージですが、今回の曲はいつになくポップなナンバー。そもそも長い髪・ヒゲを蓄えた彼の姿もこれまでの紅白とは異なる雰囲気。新生アイ・ジョージを地で行くような新鮮なステージでした。
解説
・この曲はニッポン放送の音楽番組『コッキーポップ』の初代テーマソングでした。世界歌謡祭同様こちらもヤマハ音楽振興会が全面協力、いわゆるポプコンと呼ばれた『ヤマハポピュラーソングコンテスト』と非常に関係の深い番組です(というよりポプコン関連曲がたびたびテーマソングになっていました)。
・アイ・ジョージは12年連続出場ですが、この年限りで紅白歌合戦はラストになります。金銭トラブルなどで晩年表舞台に出られなかったことが、後世の評価を大きく下げているような気がします。2025年1月に逝去が報道されました。
紅15(全体30):伊東ゆかり(9年連続9回目)
・1958年デビュー、第14回(1963年)初出場
・1947年4月6日生 東京都品川区出身
・楽曲:「誰も知らない」(1971/10/25 シングル)
・詞:岩谷時子 曲:筒美京平
・演奏時間:2分22秒
「しっとりとまいります。かわいい奥さんでございます、大変羨ましい限りでございますけれども。伊東ゆかりさん「誰も知らない」、ゆかりちゃんどうぞ!」
真っ赤なドレスで歌う伊東さん、振り返ると「小指の想い出」で和製ポップスに転向後の紅白歌合戦はバラードばかりだったのでこれだけ笑顔を見せるステージは案外新鮮。もしかすると三人娘で一緒にパフォーマンスした初出場の時以来かもしれません。先ほどのアイ・ジョージは白組歌手全員、一方のこちらも紅組歌手全員が後ろで手拍子しながら応援。会場が一体となって盛り上がる名ステージです。
解説
・この年結婚した相手は佐川満男。前年まで白組歌手として出演していましたが、さすがにこの紅白で共演は実現しませんでした。1975年に離婚しましたが、その後歌手で娘の宙美とともに3人で共演する機会は案外少なくなかったようです(佐川さんは2024年4月に逝去)。
・伊東ゆかりも1970年に入ってからレコードセールスが低下しましたが、この「誰も知らない」は大ヒット。オリコン週間10位以内のランクインは、1969年の「知らなかったの」以来。10月発売なので、大晦日時点でもっともヒットしている曲の1つでもあります。
・9年連続出場で紅組司会の経験者でもありましたが、こちらも翌年第23回は出られず。以降は第26回・第43回でそれぞれ再出場しています。
中間審査~パフォーマンスタイム
鈴木文弥アナの進行で3回目の中間審査、途中経過は紅組62・白組58。紅組が2点差を広げています。紅組先攻のアナウンスで登場したのは、異国情緒たっぷりのハワイアンダンサー。上半身の水着の布面積が少なめで、NHKなのにお色気要素もやけにあります。何がなんだかよく分かりませんが、気がつけばパフォーマンスは終了しておりました。
解説
・中間審査は勝敗に関係のない回も多いのですが、この年は4回の中間審査と最終審査の合計が両組の得点に反映される集計方法となっています。
・進行を担当する鈴木文弥アナウンサーは1948年入局、本来はスポーツ実況がメイン。1964年東京オリンピックの開会式実況担当はこの人でした。スポーツ畑のアナウンサーが紅白司会を担当するのは他に北出清五郎・土門正夫の例がありますが、さすがに担当分野が全く違うため1980年代以降は全く見られなくなります。
・ハワイアンダンサーについては、常磐音楽舞踊学院のホームページにこの紅白歌合戦出演が明記されています。いわきにある常磐ハワイアンセンター(後のスパリゾートハワイアンズ)は1966年の時点で既に開業していました。客足が伸びるようになったのは平成以降、全国的に知名度が跳ね上がったのは2006年公開の映画『フラガール』。紅白歌合戦については東日本大震災が発生した第62回(2011年)、災害による営業休止からの全面再開を控えた会場からの中継で福島県出身の西田敏行を応援するシーンがありました。
コメント