第22回(1971年)NHK紅白歌合戦~その6~

紅16(全体31):いしだあゆみ(3年連続3回目)

・1964年デビュー 第20回(1969年)初出場
・1948年3月26日生 長崎県佐世保市出身
・楽曲:「砂漠のような東京で」(1971/5/10 シングル)
・詞:橋本 淳 曲:中村泰士
・演奏時間:2分9秒

 「ハワイなんてのはねとっても空が澄んでていいらしいですけどもね、東京はなんとなくゴミゴミっとしておりますね。でもそのゴミゴミっとした東京の中でもいろんな恋愛なさったり失恋なさったりした方もね、たくさんいらっしゃると思うんですけども、いしだあゆみさんはこうおっしゃいます。「砂漠のような東京で」」

 ハワイアンの応援から東京の空気を経て、最終的に曲紹介まで繋がる流れが見事なチータの進行。「砂漠のような東京で」もまた1971年を代表するヒット曲、3年連続出場&大ヒットのステージは2年前と比べても自信が備わっているように見えました。間奏では東京・日比谷の夜景映像が挿入されています。

解説

・ハワイと紅白歌合戦の繋がりは今回が初めてではなく、第19回(1968年)でもレイが司会者3人に送られるという展開がありました。そもそも戦前はハワイに移民する日本人も多く、初期の出場歌手でも例えば灰田勝彦はハワイで生まれた後に日本へ移住するという少年時代を過ごしています。

・「砂漠のような東京で」は大ヒットで、1971年のオリコン年間セールスランキング19位。ただ歌謡界の入れ替わりが激しいこの時期、彼女も1972年以降は週間10位入り・10万枚以上のセールスはほぼ残せなくなります。

・有楽町にある東京宝塚劇場ですが、日比谷は目と鼻の先。むしろ地下鉄の最寄り駅としては有楽町より日比谷の方が至近距離にあります。なお1971年時点で日比谷線・千代田線は開通、有楽町線・三田線は未開通でした。

 

白16(全体32):村田英雄(11年連続11回目)

・1958年デビュー 第12回(1961年)初出場
・1929年1月17日生 佐賀県唐津市出身
・楽曲:「人生劇場」(1959/4/XX シングル)
・詞:佐藤惣之助 曲:古賀政男
・演奏時間:1分51秒

 作曲家・古賀政男が白組応援として登場。宮田アナとトークします。最初に東京へ来たのが大正12年、「昔は良かったけどもね。静かだったけども。この頃ようやく何か、静かになって。何か空気もきれいになったように思います」。現在は代々木在住、「今でもやっぱり富士山がきれいに見えますよ」「この暮れからお正月のきれいな空気の東京が一年中そうあってほしいと思いますね」と宮田アナがまとめたところで曲紹介、古賀先生にはバンドの指揮をして頂きます。

 「昭和の初めの古賀政男の作品でございます、「人生劇場」。楠木繁夫さん、中島孝さんと歌われ、そして現在は村田英雄さんが歌っていらっしゃいます。「人生劇場」です」

 ステージ上では古賀先生が指揮を振っていますが、よく見るとそれに合わせて白組バンドを率いる小野満も指揮を振っている様子。1938年から歌い継がれている名曲を、見事な演奏とコブシで聴かせるステージでした。

解説

・1904年生まれの古賀政男が東京に出たのは1923年、明治大学マンドリン倶楽部の創設に参画しました。作曲家として最初に知名度を上げたのは「影を慕いて」で1931年のこと、和暦だと昭和6年にあたります。日本レコード大賞創設者でもあり、存命中は当時のレコ大でもお馴染みの顔でした。

・「人生劇場」の原作は1933年連載開始の尾崎士郎による小説、歌は1938年楠木繁夫による吹き込みが最初でした。その後1956年に中島孝が歌唱、村田英雄がレコードとしてリリースしたのは1959年のことです。なお楠木繁夫は1956年12月に逝去、紅白歌合戦出場歌手では最初の物故者になっています。

・「人生劇場」は1978年に逝去した古賀先生追悼で第29回にも再び歌われました。この紅白では1番3番のみの歌唱でしたが、第29回では1番2番に加えてセリフパートも歌われています。

 

紅17(全体33):本田路津子(初出場)

・1970年デビュー
・1949年1月6日生 福岡県大牟田市出身
・楽曲:「一人の手」(1971/9/21 シングル)
・邦詞:本田路津子 曲:ピート・シーガー
・演奏時間:1分58秒

 「初出場なんですけどもね、今日は「一人の手」ってお歌いなんでしょ?でも今日は一人じゃありませんよ。みんなの手で応援しますから頑張って歌ってください!どうぞ!」

 ギターを弾きながら歌うステージは、フォークというよりカントリーの方が近い雰囲気でしょうか。紅組歌手が総出で応援、1番で小柳ルミ子が一緒に口ずさんでいるのが印象的です。

解説

・本田路津子は1970年9月に「秋でもないのに」でデビュー、この時点でのセールスは「一人の手」よりもデビュー曲の方が上でした。ただ「一人の手」は1980年代に小学校音楽教科書にも掲載されたこともあり、実際のヒットよりも確実に広く知られている楽曲です。

・翌年は「耳をすましてごらん」が朝ドラ主題歌になったことで紅白も2年連続出場。1975年に引退後、平成以降は賛美歌の歌い手として活動しています。

 

50年ぶり天皇陛下御訪欧の話題

 白いレイを首にかけた宮田アナが客席から進行、1971年の明るいニュースとして天皇陛下のご訪欧を取り上げます。客席に招待した機長の杉山さん、スチュワーデスの阿比留さん・鈴木さんにご挨拶とインタビュー。「非常に珍しい、いい天気が続きまして、おかげさまで」と、機長が当日の天気について話します。両陛下のご表情はスチュワーデス曰く、「お二人でお話が弾んで、とてもお楽しそうにお過ごしでございました」。両陛下は50年ぶりのご旅行、その当時皇太子が旅行なさった時に出来た歌を紹介。「その時の歌を、これから藤山一郎さんにお願いいたします」

 ♪大正10年3月の
 桃の節句のそのあした
 高輪御所をいでまして
 横浜港に着かせらむ

 藤山先生がアコーディオンを弾きながら一節を歌唱、歌い終わりに当時を知る妙齢の女性も映ります。この流れで、次のステージの曲紹介に移ります。

解説

・天皇陛下のご訪欧はこの年9月27日から10月14日まで。詳しくは宮内庁のホームページに記載されていますが、合計7ヶ国を回ったそうです。陛下の外遊は他に1975年のアメリカがあるのみで、少なくとも戦後は高齢ということもあってかなり貴重な機会だったようです。

・1921年の訪欧についてもWikipediaに記事あり、NHKでもニュース映像が残っているようです。もちろん当時は飛行機など存在せず船での訪問、期間も3月3日から9月3日まで非常に長期にわたるものでした。

・1921年当時はそもそもポピュラー音楽というジャンルさえも確立しておらず、歌謡曲という言葉も存在していなかったようです。一応流行歌としては「船頭小唄」が誕生したかしていないかくらいの頃、したがってインターネットで調べるだけではこの紅白で歌った訪欧の曲の情報は得られませんでした。

 

白17(全体34):フランク永井(15年連続15回目)

・1955年デビュー 第8回(1957年)初出場
・1932年3月18日生 宮城県志田郡松山町出身
・楽曲:「羽田発7時50分」(1957/11/XX シングル)
・詞:宮川哲夫 曲:豊田一雄
・演奏時間:2分0秒

 「横浜から、あるいは神戸から船でご旅行されたわけでございますね。わたくし今ここにレイをかけておりますけれども、いま実はハワイから届いたレイでございます。ハワイのお客様から頂戴いたしました。さあここで、フランク永井さんに出てもらいます。「羽田発7時50分」」。

 コード付きのマイクを持ちながら登場。1958年にヒットした当時は他にも「西銀座駅前」「こいさんのラブ・コール」などヒット曲多数、紅白では初歌唱となりました。間奏では羽田にある東京国際空港で動く映像が挿入されていますが、さすがに23時前なので空の明るさを見る限り事前に用意されたものではないかと思われます。

解説

・フランク永井は前年までほぼその年リリースのヒット曲を歌っていましたが、この年以降はほぼ過去曲メインになります。第33回(1982年)まで連続出場しましたが、「おまえに」などのリバイバルヒットを除くと純粋な新曲を紅白で歌ったのは第31回(1980年)における「恋はお洒落に」の1回のみでした。

・1958年当時の飛行機は当時から見てもまだまだ庶民的な乗り物とは言えず、国民の羨望を受けるような存在でした。なお2025年現在の羽田空港国内線の最終便は、22時発のスターフライヤー北九州行きとなっています(国際線は24時間運用)。

・この当時はまだ羽田空港が東京発の国際線機能を兼ねていました。成田空港はこの年行政代執行から暴動にまで至る状況で、長い成田闘争を経てようやく1978年に開港。なお当初計画ではこの年に開港する予定だったそうです。

 

紅18(全体35):ザ・ピーナッツ(13年連続13回目)

・1959年デビュー、第10回(1959年)初出場
・1941年4月1日生 2人組 愛知県常滑市出身
・楽曲:「サンフランシスコの女」(1971/10/1 シングル)
・詞:橋本 淳 曲:中村泰士
・演奏時間:2分12秒

 「紅組はですね、サンフランシスコの方へご招待したいと思います。ザ・ピーナッツのおふたり、「サンフランシスコの女」!」

 宮田アナがチータに赤いレイを渡しますが、そんな中でも全くお構いなしに演奏を開始する紅組担当の演奏隊。似た光景は3年前の紅白でもありましたが、確実にその当時より進行に余裕はありません。そんな慌ただしい状況でも、ピーナッツの2人は相変わらず絶品のハーモニー。「~の女」シリーズは北島三郎が4年連続歌っていましたが、その後も「東京の女」「サンフランシスコの女」とピーナッツが歌って6年連続となっています。

解説

・サンフランシスコといえば、第1回紅白で渡辺はま子が「桑港のチャイナタウン」を歌っていて日本との縁はこの時点で深め。19世紀末には既に日本人の移住が始まり、日本町も形成されていました。

・「東京の女」「大阪の女」「サンフランシスコの女」「リオの女」、ザ・ピーナッツは1970年代に「~の女」のタイトルで4作シングルレコードを出しています。「東京の女」は山上路夫・沢田研二コンビの提供、それ以外は橋本淳・中村泰士コンビでした。なお沢田研二は1975年~1987年まで伊藤エミと婚姻関係にあります。

 

応援5:宝塚歌劇団雪組

 歌い終わって早々に宝塚歌劇団雪組のメンバーが登場。ラインダンスを含めた振付で、一体になって踊ります。バックで流れるのは1971年を彩る洋楽ヒット、冒頭に流れたのは日本でも大ヒットした「ナオミの夢」でした。最後は専科で彼女たちを指導する立場の真帆志ぶきも登場、一緒に舞台袖に去っていきます。

解説

・当時の宝塚歌劇団雪組のスターは郷ちぐさと汀夏子、特に汀夏子は1980年まで女役トップスターとして君臨しました。男役は前年まで真帆志ぶきがスター、専科に移動した1971年大晦日の時点ではまさに古巣に合流してパフォーマンスという形になるわけです。

・「ナオミの夢」以外で流れている曲は調査中ですが、2曲目はオーシャンが歌う「サインはピース」との情報がXでありました。詳しい方がおられましたら、情報お待ちしています。

白18(全体36):堺 正章(初出場)

・1965年デビュー、1971年ソロデビュー
・1946年8月6日生 東京都世田谷区出身
・楽曲:「さらば恋人」(1971/5/1 シングル)
・詞:北山 修 曲:筒美京平
・演奏時間:2分8秒

 「審査員にね、世界チャンピオンの大場選手がいらっしゃるんですけれどもね、ボクサーの方はね、ウエイトの調整に大変なんですよね。歌い手さんもまた色々考えてる方がおいでになりましてね。いきますか、ひとつ。ゴングを。…全日本モスキート級チャンピオン、マチャアキ~!「さらば恋人」、堺正章さんです」

 ゴングを持った尾崎紀世彦が紋付袴姿で登場、曲紹介のくだりでそれを鳴らします。初出場ですが随分ふざけ倒した曲紹介、コミカルなキャラクターに合わせた演出ですが、ある意味では既にザ・スパイダースで残した多大な実績に対するリスペクトもあるでしょうか。歌は2コーラス熱唱、間奏ではドラマで共演するチータが初出場で祝福する場面もありました。

解説

・「さらば恋人」はセールス年間10位の大ヒット、レコード大賞争いのライバルとして尾崎紀世彦に対抗していました(当日は大衆賞を受賞)。現在でも歌番組出演の際にたびたび歌っている最大セールス曲です。

・堺正章が所属していたザ・スパイダースはグループサウンズの旗手として大人気でしたが、長髪は出さないというNHKの方針で紅白は出られず。その後井上堯之・かまやつひろしと3人でSans Filtreを結成、第50回(1999年)にオリジナル曲「Yei Yei」でパフォーマンスしています。

・水前寺清子とは日本テレビの歌番組『紅白歌のベストテン』で1969年のみ一緒にMCを担当、堺さんは『トップテン』に至る1986年まで同番組の司会でした。本家となるNHK紅白でも、翌第23回(1972年)に双方応援団長として丁々発止のやり取りを見せています。

 

紅19(全体37):渚ゆう子(初出場)

・1967年デビュー
・1945年11月8日生 大阪府大阪市出身
・楽曲:「京都慕情」(1970/12/1 シングル)
・詞:林 春生 曲:ザ・ベンチャーズ
・演奏時間:1分52秒

 「紅白の初出場の方、私も楽屋の袖のとこでガタガタガタガタ足が震えたのを憶えておりますけれども、この方もさっきね。まあ、きれいでございます!さっき足がガタガタ震えてるなんつったけども、大丈夫ですね。しっかり頑張って歌ってください。初出場でございます。京都情緒たっぷり「京都慕情」、渚ゆう子さんどうぞ!

 ありったけの髪飾りに和服姿と高下駄、京都の舞妓をイメージしたような衣装が本当に見事でした。あとは靴の影響で歌唱はステージ真ん中ではなく紅組歌手席の目の前、以前は紅組白組ごとに固定マイクが設置されていましたがその時よりも端で歌っているような気もします。総じて今回の紅組および初出場でも、特に印象に残るステージでした。

解説

・1970年大晦日の時点で「京都の恋」が大ヒットしていた渚ゆう子ですが、結果的には1年遅れの紅白出場になりました。ヒットした時期が秋以降とやや遅く、選考に間に合わなかったという背景があります。同じような事例はこの年欧陽菲菲「雨の御堂筋」でも発生、奇しくも双方ザ・ベンチャーズの作品でした。

・ベンチャーズ作品はこの年12月リリースの「長崎慕情」も含めて3曲、それ以外にヒットしたのは主に筒美京平作品でした。レコード大賞では外国曲がノミネート外なので、歌唱賞受賞の日本レコード大賞では「さいはて慕情」の披露になっています。

 

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