紅白名言集解説・64~光GENJIの初出場は記録ずくめ~


 昭和最後の紅白歌合戦となった、1988年・第39回。この年に人気を大爆発させたグループが、光GENJIでした。「パラダイス銀河」「ガラスの十代」「Diamondハリケーン」でオリコン年間シングル売上TOP3を独占、一気に日本レコード大賞までかっさらいます。ローラースケートを使用したパフォーマンス、カーくんと言われた諸星和己の強いカリスマ性、初期3曲はチャゲ&飛鳥の飛鳥涼の提供も大きな話題になりました。たのきん以降約40年にわたる歴史の中でこれだけ人気が沸騰したのは、この時の光GENJIが一番だったのではないかと思います。

初出場ながらとにかく異例な扱い

 赤坂晃佐藤敦啓は1973年生まれで、16歳に達していません。そのため『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』など20時以降の番組には労働基準法に抵触するので、原則出演できませんでした。と言いつつも出演した事例もあったようで、事務所に労働基準監督署の調査が入ります。その結果、1988年7月に「芸能タレント通達」を発出することで出演が認められるようになります。これは俗に「光GENJI通達」と言われる事案で、それだけ彼らの人気が無視できなかったことを意味しています。

 したがって「STAR LIGHT」「ガラスの十代」が既に大ヒットした前年は、当時21時放送開始の紅白歌合戦出場が難しかったわけですが、この年は問題なく出場可能となりました。

 国の法律が変わるくらいの人気なので、紅白でも当然ながら特別扱いです。なにせこの時期の紅白歌合戦は視聴率が低下傾向。1984年の78.1%をピークに、66.0%→59.4%→55.2%という惨憺たる状況でした。もっとも、この傾向は紅白のみならず歌番組全体に言える話でしたが…。したがって、社会現象になった光GENJIは視聴率回復の切り札でした。

 レコード大賞を受賞した日本武道館からその衣装のまま移動して、歌手入場のラストに登場した彼らはこの年の大トリ・北島三郎と一緒に登場。更に同じ初出場の中山美穂と一緒に選手宣誓も担当します。翌年を最後に廃止される出場歌手の選手宣誓、グループの歌手が務めたのは彼らが唯一です。

当日のステージも極めて異例づくめの内容

 選曲は1曲のみでなく、「光GENJI ’88メドレー」と題したヒット曲のメドレーを取り入れました。今では全く珍しくないですが、この選曲はそれ以前ほぼありません。この年白組司会の加山雄三が第32回(1981年)に代表曲3曲をメドレーで歌ったこともありましたが、その年ヒットした曲で固めたのは第14回(1963年)の植木等「どうしてこんなにもてるんだろう・ホンダラ行進曲」がある程度。「ガラスの十代」「パラダイス銀河」「Diamondハリケーン」「剣の舞」も入る、4曲がメドレーで披露されたのは紅白史上初でした。第30回(1979年)、特別出演の藤山一郎美空ひばりのメドレーが3曲だったという事実を考えても、この年の光GENJIに賭けた想いが伝わります。

 更に言うと、その4曲が順番通りではなくランダムに変わる編曲も史上初。というより他に事例がありません。メドレー内で一度歌った曲をまた歌う、程度はありますが…。内訳は以下の通りです。

  1. ガラスの十代(イントロ~歌い出し)
  2. パラダイス銀河(サビ)
  3. Diamondハリケーン(イントロ~1番Bメロ)
  4. ガラスの十代(2番サビラストフレンズ~Cメロ前半)
  5. Diamondハリケーン(1番サビ)
  6. 剣の舞(1番サビ直前~2番サビ)
  7. パラダイス銀河(間奏~ラストサビ~アウトロ)

 3曲を2ヶ所に分けて歌うというのは、後にも先にもこの時だけです。他番組やコンサートでもほとんどないような気がします。

 また、このステージで使われたのは歌入りテープ。つまり生演奏ではありません。この頃から生演奏を前提としない歌番組も増えてはいましたが、紅白で生演奏を用いないステージが取り入れられたのも1988年が初でした。これは光GENJIに限らず少年隊中山美穂でも同様です(指揮者の腕が動いていないことも確認できます)。

 ステージでは「剣の舞」で早替えがあります。ソロを歌う佐藤敦啓がダンサーに囲まれ、あとの6人が舞台袖に掃ける形で上着を脱ぎますが、舞台袖を利用した早替えもこのステージが初めてです。あとはダンサー、と軽く書きましたがこれは6人当時のSMAPです。白組歌手としては1991年初出場ですが、紅白のステージに立つのはこの時が初でした。ちなみに最年少の香取慎吾は、当時11歳です。SMAPの結成自体が、この年の4月でした。

ステージ終了後

 SPEEDモーニング娘。登場後は、自主的に21時以降15歳未満の芸能人は出さないという規制で通していますが、当時はそういうわけでもなかったので7人ともエンディングまで出演しました。とは言えあまりおおっぴらにやることではなく、上海雑技団のショー紹介で年長メンバーが喋る場面が少しあった以外は、歌手席でチラッと映り込んだりする程度。「蛍の光」は後ろの方でほぼ画面に映らない位置での参加でした(当時はステージを動くカメラマンもいません)。

 視聴率は55.2%から53.9%、低下傾向はそのままですが下げ幅は縮まりました。もっともこれは関東のみの傾向で、他地域は軒並みアップしています(ビデオリサーチ社の紅白視聴率参照)。関西地区が特に顕著で、47.8%→54.9%と実に7%も上がる結果になりました。

 光GENJIはこの後も第44回(1993年)まで出場します。ただ社会現象的な人気は翌年までで、1990年に入るとパタッとやみます。とは言えファンの応援の熱さは1995年解散時まで続いて、紅白歌合戦でも一際光る存在でした。SMAPを筆頭に、長く人気を保ち続けたグループはこれ以後も多くいますが、1988年の光GENJIほどの巨大なインパクトはありません。こと紅白歌合戦史を紐解いても、これだけ前例のないことを一挙に取り入れたステージは滅多にないように思います。この年は昭和最後の紅白ですが、平成まで5回以上連続出場した歌手は6組いて他の年と比べても群を抜いて多いです。21時開始という点や演出・曲順を除くと、平成の紅白の先駆け的存在の回と言っても過言ではないのかもしれません。

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