紅白歌合戦・辞退の歴史・その1~番組初期編

 最近は参議院選挙絡みの話題とか、年配ロックファンのマナーの悪さとかTwitterを見ると色々気になることがあります。その辺りで適当にコラムを書いても良いのですが、なかなか上手いことまとまらないのが現状です。

 当サイトで主に取り上げられている紅白歌合戦は、NHKの中心とも言える番組の性格上、たびたび体制的などと色々槍玉に挙がりやすいです。かつては紅白のみならず、テレビで歌うこと自体を拒否するミュージシャンも多くいました。とは言え平成以降はそういった事例もほぼありません。

 というわけで、今回は「紅白歌合戦の辞退の歴史」と題して、何記事かに分けて時期ごとの辞退の変遷を振り返ることにします。

番組初期

年始興行との兼ね合いで

 1951年1月3日・第1回NHK紅白歌合戦の出演を辞退した歌手は多数存在します。

 歌手にとって年始は稼ぎ時。テレビが存在しない時代、人気歌手は正月公演もしくは劇場で興行を催しているケースが多くありました。

 「かえり船」「玄海ブルース」などが当時大ヒットした田端義夫は、この理由で番組初期に紅白は1度も出演していません。初出場は人気が落ち着いた後、「島育ち」がリバイバルヒットした第14回(1963年)。大晦日の放送が定着して視聴率80%台を記録してからの話です。

 「憧れのハワイ航路」「啼くな小鳩よ」の岡晴夫も同様にスケジュールが空けられず、紅白歌合戦は一度も出場がありませんでした。多忙から体調を崩した結果、1970年に54歳の若さで逝去します。

 番組初期はスケジュールの確保が現在と比べても非常に難しく、人気歌手でも連続出場になった例は多くありません。第1回から10回連続で出場したのは、二葉あき子が唯一です。美空ひばり淡谷のり子小畑実といった面々も、初出場は大晦日・テレビでも放送され始めるようになった第4回(1953年)以降でした。

初の当日辞退はハプニング

 1952年1月3日放送の第2回NHK紅白歌合戦、本番前に松島詩子から出場できないという連絡が入ります。

 昼の地方公演から移動中の車が都電と衝突。重傷を負って出られなかった松島さんに変わって、スタッフは急遽代役を依頼。新年会を開催中の越路吹雪が出演、ほろ酔いのまま本番で歌ったという逸話が残っています。

 また第6回(1955年)では出演予定だったサンディー・シムスが悪天候で滞在先の香港から帰国できず、やむなく芦野宏が代役出演。サンディー・シムスはその後紅白に選ばれていないので、番組初となる「幻の紅白出場歌手」という形になりました。

民放とのブッキング合戦

 1955年と1956年は、ラジオ東京テレビ(現・TBS)で『オールスター歌合戦』が真裏に編成されました。

 明確に紅白歌合戦を意識した番組内容で、特に第6回(1955年)では破格のギャラ&紅白との掛け持ち不可という条件で歌手を引き抜きます。近江俊郎伊藤久男淡谷のり子春日八郎雪村いづみは連続出場が続いた中この年に限って民放出演のため紅白辞退、島倉千代子青木光一白根一男はこちらに2年連続出演した後に紅白初出場になりました。美空ひばりも2年間はこの民放番組に出演、その間紅白は不出場となっています。

 第6回で多くの人気歌手が引き抜かれた結果、翌第7回はNHKの交渉も熱を帯びます。1956年に「哀愁列車」などで一気に国民的歌手になった三橋美智也への交渉は、民放への引き抜きを阻止するためかなり力を入れたと言われています。その結果各レーベルごとに若手のバーター出演が続出、この年各16組から各25組に歌手が一気に増えた要因にもなりました。第7回紅白は15組の歌手が初出場、これは第1回紅白の出演者数よりも多いです。

フォークソング台頭前

実質的な初の辞退者

 合田道人著『怪物番組 紅白歌合戦の真実』によると、スケジュールの都合や体調不良と違う番組の考えを理由に辞退した歌手の第1号は第17回(1966年)の森繁久彌だと言われています。

 森繁さんは第10回(1959年)から前年まで歌手として7年連続出場、ヒットというよりもエンターテイナー的な役割を期待されての出場でした。例えば第16回の歌唱曲は「ゴンドラの唄」、大正時代の楽曲ですがステージは間奏に手紙を朗読、その紙を客席に投げ飛ばすという独創的なパフォーマンス内容となっています。

 1960年代以降は現在のように、その年にリリースされた曲がヒットして紅白に出場というケースが多くを占めるようになります。大御所がいつまで紅白に出てるんだというのは現在でもよく言われていますが、1960年代でもそんな声はあったようです。実際森繁さんは当時52歳ですが、出場歌手としては第16回時点で紫綬褒章受章で復帰の東海林太郎を除くと最年長でした。

 「最近ではギャラ吊り上げの道具という噂があります」、そんな皮肉も込めて辞退という形になりました。なおNHKとの関係は特に悪化せず、1969年放送の『第1回思い出のメロディー』は森繁さんの歌が記念すべき最初のステージとなっています。

ベテラン勢が少しずつ…

 第20回(1969年)、これまで16年連続出場で最多出演記録を保持していた江利チエミが落選します。

 同じ年には紅組司会経験者でもあるペギー葉山九重佑三子も落選。若返りの波が紅白に押し寄せます。翌第21回(1970年)には、当時白組の最多出場歌手であった春日八郎も落選となりました。

 その一方、第21回では江利チエミが当初2年ぶりの出場して発表されます。この背景には、盟友の美空ひばりが紅組司会を務めるという事情もありました。

 ところがチエミさんは発表があった後にまさかの辞退表明。ヒット曲がないという落選理由だったのに復帰できるのはおかしいという彼女の弁、意地の辞退と報じられます。事故や体調不良を除く、出場歌手発表後に辞退を表明する例はこれが初めてでした。

 同年は14年連続出場中だった越路吹雪も辞退を表明、結果33歳の美空ひばりが紅組最年長&最多出場歌手・司会・大トリ兼任という形になります。そのひばりさんも1973年に落選、以降は特別出演の第30回を除いて辞退を貫く形になりました。

主な辞退者リスト(第1回~第21回)

 以下、確認できる限り本文に記した歌手も含め、主な紅白辞退歌手を表記します。今回は第1回から1970年・第21回まで掲載します。なお、出場歌手発表後もしくは本番当日に辞退した歌手については下線表記としました。

 ちなみに1960年代後半のグループサウンズやフォークグループは全て辞退ではなく落選のようです。石原裕次郎鶴田浩二小林旭など本職が俳優の歌手についても、この時期は「歌手の祭典であること」を理由に選出しなかったと言われています。もっとも実際にはこの時期で既に、高田浩吉吉永小百合など俳優が歌手として出場していた例もありますが…。

歌手名該当年辞退理由備考
岡 晴夫第1回他多数公演のためスケジュールが合わない不出場のまま1970年逝去
松島詩子第2回(1952年)移動中に事故に遭う越路吹雪が代役出演
霧島 昇第4回(1953年)北海道で公演翌年第5回で白組トリ
多数の歌手第6回(1955年)・第7回(1956年)裏番組出演
サンディー・シムス第6回(1955年)滞在先の香港から帰国できず芦野宏が代役出演
雪村いづみ第7回(1956年)本番当日に急病のため代役は設けず、出番を飛ばす
三波春夫第8回(1957年)正月興行を優先翌年第9回から29年連続出場
朝丘雪路第9回(1958年)即席グループでの出場を断った前年にソロで初出場
森繁久彌第17回(1966年)番組に対する考えの相違その後2度ゲスト出演
江利チエミ第21回(1970年)自らヒット曲が無いとの申し出第22回以降も辞退、1982年逝去
越路吹雪第21回(1970年)番組に対する考えの相違第22回以降も辞退、1980年逝去
ザ・ドリフターズ第21回(1970年)メンバー・加藤茶の交通事故歌手としては第52回(2001年)で初出場

 

 

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