紅白歌合戦・辞退の歴史・その2~昭和テレビ時代編

1970年代

フォークシンガーの台頭

 1972年、よしだたくろうが「結婚しようよ」「旅の宿」で商業的な成功を収めます。いわゆる反体制的・サブカル的なイメージが強かったフォーク界隈は、この時を境にメインカルチャーへ移行しました。NHK側も当然出演依頼をするもののあっさり拒否。コンサート中心の活動を当面継続、テレビ出演を受諾するのは当時の若者が番組制作の中心になり始めた1980年代後半以降となります。

 彼の登場は非常にセンセーショナルでした。以下オリコン年間TOP50にランクインしたフォーク系の歌手について、1972年以前と以後で分けた表です。

ヒット当時に出演ヒット期が過ぎてから出演現在まで出演無し
森山良子
加藤登紀子

はしだのりひことクライマックス
青い三角定規
ビリー・バンバン

吉田拓郎ザ・フォーク・クルセダーズ
はしだのりひことシューベルツ
新谷のり子
千賀かほる
ベッツィ&クリス
ソルティー・シュガー
あがた森魚

ヒット当時に出演平成以降に初出演現在まで出演無し
ガロ
チェリッシュ
海援隊

ペドロ&カプリシャス
小坂明子

ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
ハイ・ファイ・セット
ツイスト
サザンオールスターズ
吉田拓郎
かぐや姫
小椋 佳

松任谷由実
イルカ
河島英五
アリス

中島みゆき
矢沢永吉
チューリップ
あのねのね
井上陽水

りりィ
グレープ
山本コウタローとウィークエンド

ダ・カーポ
小坂恭子

かまやつひろし
バンバン
クラフト
甲斐バンド
因幡 晃
シグナル
ミス花子
ジョー山中

丸山圭子
松山千春

 これを見ると、1972年以前の歌手について言うと辞退と思われるアーティストは存在しません。ザ・フォーク・クルセダーズは「帰って来たヨッパライ」がミリオンセラーを記録しますが、辞退ではなく落選と言われています(「イムジン河」が当時放送禁止歌だったことも影響していました)。

 1970年前後のフォークソングは、岡林信康や高石ともや他のコンサート中心組と、紅白・レコ大にも出演したヒット組に大きく分かれています。いわゆる反体制のイメージで括られるのは前者ですが、実を言うと早い段階でフォークソングは広く市民権を得ています。弾き語りでマイク眞木が「バラが咲いた」を紅白で歌ったのは1966年、もっともその一方で当時作業着のイメージが強かったGパン姿は視聴者から多数の抗議が寄せられる結果となりました。

 一方1973年以降はそれ以前と比べると明らかにフォーク系のアーティストのヒットが増加します。ただオリコン年間トップ50のランクイン曲を見る限り、アイドル・演歌系は大半が出場を果たしているのに対してフォーク系はヒットしても「テレビに出演していない」「地方の支持が薄い」ことを理由に見送りになるケースも多かったようです。逆に言うと、テレビ出演無しでもレコードがヒットするようになったのは吉田拓郎の登場以降でした。

 明確に辞退を表明したと言われているのは、次の方々です。

歌手名該当年辞退理由備考
吉田拓郎第23回(1972年)休暇でグァム島に滞在第45回(1994年)で初出場
かぐや姫第24回(1973年)歌詞の「クレパス」変更を拒否第43回(1992年)で初歌唱、”クレパス”も歌われる
さだまさし第28回(1977年)フルコーラスが歌えない第30回(1979年)でフルコーラス歌唱の初出場
アリス第29回(1978年)スケジュールが合わない第51回(2000年)で初出場

ついにトップアーティストからも辞退が発生

 美空ひばり江利チエミなど、かつての紅白常連歌手も引き続き辞退を続けます。特にひばりさんに関しては、辞退の報道が毎年のように週刊誌を賑わせていました。第27回(1976年)は沢田研二が辞退しますが、これは自身が起こした暴行事件という事情があります。

 これまで振り返った通り、紅白の出場辞退は概ねベテランの意地・テレビ不出演・何かしらのハプニングのいずれかによるものが主体でした。それを根本から覆したのが、第29回(1978年)のピンク・レディー辞退です。

 前年に「ウォンテッド」で初出場、この年も「UFO」「サウスポー」「モンスター」で年間TOP3独占という大旋風を巻き起こしています。そんな人気絶頂の彼女たちが紅白を辞退したのは、世間に大きなショックを与えました。

 辞退理由はチャリティーコンサートの開催、もっとも当日はそれが日本テレビで『ピンク・レディー 汗と涙の大晦日150分』として放送されます。大きな批判を浴びて人気低下のきっかけになる事件でしたが、その原因はケイが超多忙で体調不良の中でせっつく第28回紅白のスタッフの態度にあったそうです(そのため本番はステージ以外終盤の歌手席~エンディング参加のみでした)。

 辞退どころか真裏に特集番組が組まれた紅白歌合戦は視聴率ダウン、特に関西地区では70.7%→53.6%という衝撃的な結果になりました(翌年は62.6%に回復)。2000年代ならモーニング娘。、2010年代ならAKB48が裏番組に逃げられるような事態であったと考えれば分かりやすいのではないかと思います。

1980年代

大晦日は休みたい…

 テレビ出演の少ないアーティスト、特にニューミュージック系に関してはコンサート中心の活動が多く組まれていました。第30回(1979年)に辞退したと言われるアリス松山千春南こうせつはいずれも大晦日をオフにすることがその理由となっています。

 第32回(1981年)も「長い夜」の松山千春に「守ってあげたい」の松任谷由実が辞退。この頃から辞退の主役は美空ひばり石原裕次郎といった歌謡界のベテラン・大御所陣ではなくニューミュージック系に移行します。

 活動休止・引退表明の歌手への交渉もこの辺りから始まります。第31回(1980年)は山口百恵にもオファーしますが当然辞退、第33回(1982年)は大学受験で休業中の薬師丸ひろ子にもオファーしますが辞退します。

 そして第35回(1984年)には前年に出場したサザンオールスターズアルフィーも辞退。2組とも明らかに前年よりヒットしていましたが、紅白出場は断っています。アルフィーは前回出演した結果リハなどで時間を取られるのを嫌ったという本人談があります(その後も一切出演無し)。そしてサザンは、これまでのアーティストとはまた異なる別の理由でした。

年越しライブの開催

 1984年大晦日、サザンオールスターズは新宿コマ劇場で『縁起者で行こう』と称したコンサートを開催します。

 実は前年にも紅白終了後に渋谷LIVE INNでシークレットライブを開催してたらしいですが、公式で1アーティストが年越しライブを開催したのはこの時のサザンが最初だと言われています。

 一旦活動休止を挟みますが、再開後は1990年以降ほぼ毎年の開催が恒例化。紅白復帰は31年後の第65回(2014年)、ライブと並行しないNHKホールでの開催はさらにもう少し後の第69回(2018年)まで待つ形となります。

視聴率低下とともに辞退者も増加

 第35回を境に、紅白歌合戦は視聴率が一気に低下します。1985年からは5年連続、当時の最低視聴率(関東地区)を更新し続ける状況でした。

 まずフジテレビは1985年と1986年に『世界紅白歌合戦』を編成、海外アーティスト主体の歌番組を『夜のヒットスタジオ』スタッフ中心に立ち上げます。1985年は紅白から漏れた歌手を拾う形でしたが、1986年は本田美奈子谷村新司がこちらを優先して紅白を辞退。第37回(1986年)で紅組キャプテンを務めた斉藤由貴も、翌1987年は裏番組出演を理由とした辞退と言われています。

 また、明らかに紅白歌合戦に非協力的なレーベルも出てきました。日本テレビ出資のバップからは菊池桃子杉山清貴がブレイクしますが、いずれも紅白出場はありません。菊池桃子に至っては1985年・1986年と2年連続で海外ロケのため出演辞退、これは1970年代までのアイドルだと考えられなかったことです。この時期にバップから出場したのは、「無錫旅情」がヒットした演歌の尾形大作のみでした。

 1980年代後半はEPICソニー所属のアーティストが次々ブレイクしますが、こちらも紅白出場は極めて少ないです。渡辺美里鈴木雅之(RATS&STAR)佐野元春バービーボーイズなどいずれも縁がなく、小比類巻かほるTM NETWORKが1回ずつ出演したのみです。

 第37回(1986年)は週刊誌のスキャンダルで北島三郎山本譲二が辞退する事件が発生します。代役の1人である鳥羽一郎も辞退してシブがき隊に交代、紅白史上唯一代役の代役が発生するケースになっています。

 また第38回(1987年)は島倉千代子三波春夫といった大御所の常連2名も辞退を表明、さらに第39回(1988年)では落選した次の年に再出場になった田原俊彦が突っぱねるという事件も起きました。この辺りは、同様に出演を断った江利チエミ、辞退表明した越路吹雪の第21回(1970年)と共通する部分が多いです。

 

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