紅白名言集解説・31~1985年当時の司会ぶり~


 森昌子さんが紅組司会を務めたのは昭和60年・1985年のこと。美空ひばり以来15年ぶりとなる司会とトリ兼任、涙で「愛傷歌」を歌えなくなるシーンは、ファンならずとも当時の人々の記憶に強く残っている出来事ではないかと思います。そんな1985年の司会を象徴するシーンが、今回のツイート。

・1985年の芸能人の結婚事情

 当時の紅白歌合戦、結婚についての話題は曲紹介で多々取り上げられます。特に紅組歌手の曲紹介でより多く言及されていることが多かった気がします。中には結婚してすぐ離婚した方もいらっしゃいますが…。前年の紅白では高田みづえが大関・若嶋津関(現・二所ノ関親方)との婚約を発表する前でしたが、涙を流しながらのステージと曲紹介がそれを示唆していました。聖子さんも郷ひろみとの交際が広く触れられましたが、年が明けて早々に破局発表。そして神田正輝の電撃結婚という予想外な展開を見せます。実はこの発言、松田聖子のステージ直前で生まれた形になります。6月に挙げた結婚式生中継以降テレビ出演を控えていましたが、この紅白が久々の出演でした。ちなみにその結婚式中継は視聴率34.9%を記録、この時期は時折あるビッグカップルの結婚式中継が屈指のキラーコンテンツとなっていました。最近は俳優同士の結婚があっても式の中継はおろか式自体の話題も聞かないので、まさしく隔世の感があります。

 例に挙げたみづえさんは当時25歳、聖子さんは23歳、そして昌子さんは27歳。既に森進一と交際していた中で、どんな気持ちでこの台本に向き合ったのかは、少し気になるところです。

・バラエティで鍛えられた森昌子の凄さ

 結論を言うと、昌子さんの司会っぶりは大変素晴らしいものでした。倍以上の年齢である白組司会・鈴木健二アナを相手に丁々発止のやり取り。勿論鈴木アナの”気くばり”もリハーサル段階から多々あったとは思われますが、持ち前の明るいキャラクターと度胸の良さが大変光っていました。当時歌番組常連の歌手はバラエティ番組出演も多く、『欽ちゃんのどこまでやるの!』ではレギュラーとしてコントを演じていて、それ以外でもカックラキンやら全員集合やら多々出演。そしてモノマネも得意で、1973年に放送されたフジテレビの第1回オールスターものまね王座決定戦では初代チャンピオンに輝いています。美空ひばりが子どもの時に笠置シヅ子のモノマネから広い評価を得た話は有名ですが、昌子さんも15歳で既に似たような下地はあったわけですね。ただ紅白に限って言うと、これまでそういった芸達者ぶりを見せる場面はほとんどありませんでした。そういう意味では、歌以外における森昌子さんの才能を一気に披露できた場だったのが1985年の紅白歌合戦だったようにも思います。

・当時の紅白司会の大変さ

 舞台では大掛かりなセット転換がようやく定番化し始めた段階、今みたいにプロンプターで台本が表示されるなんてことはありません。どうしても憶えられない部分は個々でメモ書きしてそれを見て喋ることもありますが、それは基本カメラが映らない範囲に限ります。舞台下では時間の指示はあると思いますが、目線を下げてカンペを見るというのは許されない時代でした(…と思われます)。そして何より、白組司会を務めていた鈴木健二アナが台本の中身を全て頭に入れていたというバケモノっぷり。というわけで、昌子さんも本番の流れやセリフを一言一句しっかり頭に入れる必要があるわけです。

 紹介したツイートは、鈴木健二アナなら当然頭に入っているデータを話そうとすると、昌子さんが遮ってツラツラ述べるという段取り。こんな細かい数字は簡単に憶えられるものではなく、紅組司会を複数回担当したチータや佐良直美でもそんな場面はなかったはずです。一気に話した後に「ああ、言えた良かった」と言葉が出たのは、そういう背景があるからです。もちろん横には鈴木アナがついていて、本当に数字が出なくなったら咄嗟にフォローできる体制ではありました。見事に言い切った昌子さんに、鈴木アナも心から拍手を贈るとともに、2日前から頑張って憶えたという裏話もついでに披露します。この鈴木健二アナウンサー、白組司会は1983年~1985年の3度だけですが、そのエピソードは常人ではあり得ないような物が多々あります。彼の名言については他にも多々あるので、またそのたびに紹介する予定にしています。

 以上です。当時はサラリと流された場面ですが(会場からの拍手はありましたが)、こんな部分でも当時の世相と背景がギッシリ詰まっています。直接の曲紹介だけでなく、こういったワンシーンも今後どんどん紹介できる機会を作りたいですね。

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