日本を代表する脚本家・橋田壽賀子さんの訃報が本日報道されました。映画『長崎の鐘』から始まった脚本家生活は約70年、実は紅白歌合戦と同じくらい長きの年月に渡った活動になっていました。ドラマ脚本で最初に話題になったのは1964年東芝日曜劇場の『愛と死をみつめて』、その後はTBS・NHKを中心にずっとヒット脚本家でした。平成以降だとやはり『渡る世間は鬼ばかり』のイメージが強いでしょうか。その頃にはタレントとしての活動も印象的になっていました。心からご冥福をお祈りします。この記事では橋田先生と紅白(≒NHK)の関わりについて書いていきます。

 

・NHKでは紅白歌合戦のゲスト審査員を3度務める

 橋田さんがNHKに初めて携わったのは1968年度放送の連続テレビ小説『あしたこそ』。藤田弓子さん主演で1年間放送、平均視聴率は約45%。この頃は『おはなはん』『旅路』と特に視聴率高い作品が続いていた時期ですが、『あしたこそ』も同様に非常に高い数字を記録したヒットドラマでした。主演の藤田さんは、1968年第19回の紅白歌合戦で特別審査員(今で言うゲスト審査員)を務めています。

 橋田さんの紅白初出演は1977年・第28回の特別審査員。銀河テレビ小説『となりの芝生』(1976年放送)、『となりと私』(1977年放送)を担当した縁で呼ばれた形でした。『となりの芝生』は山本陽子さん、前田吟さんの主演で大ヒット。橋田ファミリーとしてお馴染みの赤木春恵さん、そしていまや昼の番組に欠かせない坂上忍さんも子役で出演していました。『となりと私』『幸せのとなり』を含めて、となり3部作としてお茶の間に親しまれます。

・『おしん』がヒットする前の年にもゲスト審査員

 1980年代は橋田先生が特にNHKで重要な位置を占めていた時期です。3作の大河ドラマ(『おんな太閤記』(1981年)・『いのち』(1986年)・『春日局』(1989年))と伝説の連続テレビ小説『おしん』(1983年)を担当、その全てで高視聴率を残します。そんな中1982年・第33回に特別審査員を担当。5年ぶりというスパンはかなり短く、当時は第17回・第22回の樫山文枝さん、第24回・第29回の北の湖関、第26回・第30回の古葉竹識さんの例があるのみ。後年でもこれだけ短いスパンで審査員として出演するケースは、あまり多くありません。それだけ当時のNHKに重用されていたことが、この人選だけを見てもよく分かります。

 昭和の紅白歌合戦は今みたいに一人ひとりコメントを振られるわけではないので、審査員が目立つ場面はあまりありません。ただこの回は歌手として登場した西田敏行さんが審査員に絡む場面がありました。西田さんは前年脚本を担当した『おんな太閤記』で豊臣秀吉役なので橋田先生とは大きな縁があります。というわけで客席から登場した西田さんは「ああ上野駅」を歌う前に、ご機嫌伺いという形で審査員にご挨拶。橋田先生と握手するとともに「またいい役あったら是非よろしくお願いします」と直に出演依頼して、大ウケしていました。もっともその後、橋田脚本で西田さんの出演は調べてみると1986年の年末ドラマ『旦那さま大事』の山内一豊役(しかも千代役が『おんな太閤記』ねね役の佐久間良子さん)くらいで、ほとんど一緒に仕事をする機会は無くなったようです。この時のやり取りが原因、では決してないと思うのですが…。

・2004年のゲスト審査員ではそのコメントが少し話題に

 時を経て、3度目のゲスト審査員を担当したのは2004年・第55回。1990年代以降はTBS『渡る世間は鬼ばかり』が毎年2クールは放送されていた頃で、朝ドラ『おんなは度胸』『春よ、来い』もありましたが若干NHKのイメージが薄れた頃でした。そんな中2005年10月に放送80周年記念ドラマ『ハルとナツ 届かなった手紙』脚本を担当、その縁で主演を務めた森光子さんともども2004年の審査員として招待されました。

 橋田さんのコメントが生まれたのは番組前半、17ステージ目の美川憲一さんが派手なパフォーマンスを魅せた直後。彼に扮したコロッケさんがマイクを向けます。”1曲も知らない”というのはこの時点で79歳、その年の楽曲が多かった選曲を考えると全く不思議ではない発言ですが、翌年の週刊誌でピックアップされたことで多少反響を呼ぶ形になりました。もっともこの発言が生まれる前に後藤真希&松浦亜弥が冬の童謡メドレーと称して「お正月」なんかも歌っていたので、1曲も…というのは少し無理があるようにも感じましたが(ただそれが頭に残ってたかどうかは定かではありません)。ですが決してこの年の紅白を楽しんでなかったわけでなく、島倉千代子さんの「人生いろいろ」では温かい表情でステージを楽しむ橋田さんの姿がしっかり映っています。週刊誌ではこの時期特に紅白に関してバッシングする流れが一般的で、当時見た記事も視聴率低下にカッコつけた記事という印象でしたが、少なくとも先生にそういった意図はなく、単純に感じたまま出た発言であることは間違いないはずです。

 実際この年の紅白歌合戦は本番前に多く報道されたNHK不祥事の影響と、格闘技を筆頭とする裏番組の台頭が原因で視聴率を大きく落としました。翌年以降特にベテランの演歌歌手で、過去曲の選曲が格段に増える形になります。もちろんその最大の要因は視聴率低下や番組ひいてはNHKに対する不評によるものですが、橋田先生が残したコメントも当時の視聴者の声を代弁しているということで、若干の影響があったのかもしれません。もっとも1曲も知らないというコメントは橋田先生が初めてではなく、1993年のきんさんぎんさんの例もあったりするのですが…。

 ちなみに当時の橋田先生はバラエティ番組出演も増えていて、1998年~2000年は『笑っていいとも!』のレギュラーでもありました。忖度無く思いのまま喋るキャラクターは強く印象に残りましたが、それが良い方向にもそうでない方向にも働いていたようには見えました。

・おわりに

 TBSやNHKのドラマ史には絶対に欠かせない最重要人物であることは間違いないですが、意外と紅白歌合戦でも目立った箇所が複数回あったことはこの記事で分かって頂けたかと思います。不思議と訃報は続くもので、1980年の紅白歌合戦に加山雄三さんの応援で出演した田中邦衛さんの訃報も先日報じられました。訃報のたびにこういった記事を書くのは心苦しい面もありますが、今後も定期的にこういった形で執筆する機会は増えそうです…。