前回の記事では記録面についての言及ですが、今回は1つ1つのステージについてもう少し細かく振り返ります。なお見出しは前後の2ステージを掲載、下線を引いた白組歌手が直接の対戦相手になっています。また曲紹介担当も記載しました。
第14回(1963年)より前は映像が残っていないので、インターネットや著書などあらゆる手段を駆使して調べています。特別出演を含めると計18回ですが、書き終わると思いのほか大作記事になりました。では早速ご覧ください。
- 第5回(1954年)「ひばりのマドロスさん」
- 第8回(1957年)「長崎の蝶々さん」
- 第9回(1958年)「白いランチで十四ノット」
- 第10回(1959年)「御存じ弁天小僧」
- 第11回(1960年)「哀愁波止場」
- 第12回(1961年)「ひばりの渡り鳥だよ」
- 第13回(1962年)「ひばりの佐渡情話」
- 第14回(1963年)「哀愁出船」
- 第15回(1964年)「柔」
- 第16回(1965年)「柔」
- 第17回(1966年)「悲しい酒」
- 第18回(1967年)「芸道一代」
- 第19回(1968年)「熱祷」
- 第20回(1969年)「別れてもありがとう」
- 第21回(1970年)「人生将棋」
- 第22回(1971年)「この道を行く」
- 第23回(1972年)「ある女の詩」
- 第30回(1979年)「美空ひばりヒットメドレー」
- 没後のステージ
第5回(1954年)「ひばりのマドロスさん」
作詞:石本美由起 作曲:上原げんと
対戦相手:小畑 実
ひばりさんのNHK初出演は1946年の『素人のど自慢』、「河童ブギウギ」でデビューしたのは1949年。紅白歌合戦の第1回が放送されたのは1951年1月3日ですが、それを差し引いてもやや遅めの初出場です。この時点で既に「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」「津軽のふるさと」など、多数のヒット曲を持つ大人気歌手に成長しています。
紅白歌合戦が大晦日でホールから生中継になるのは1953年・第4回から。それまでは年始の放送で、人気歌手は正月興行と重なるケースが多かったようです。ひばりさんには既に第3回の時点で出演オファーはありましたが、スケジュールの都合で辞退していたそうです。大晦日放送になった第4回も同様に不出場、第5回でようやく初出場となります。
江利チエミが前年に続き2回目の出場、雪村いづみもこの年紅白初出場でした。日本の芸能界で一番最初に三人娘と呼ばれたのはひばり・チエミ・いづみの3人ですが、3人揃っての共演が注目され始めたのはこの紅白ではなく翌年公開の初共演映画『ジャンケン娘』です。
テレビ放送は前年から開始されていますが、VTRはおろか音声も冒頭1時間程度が残るのみ、そのためこのステージの様子は全く分からず、対戦順は明らかになっていますが先攻後攻は不明な状況です。ただ合田道人氏の著書『紅白歌合戦ウラ話』によると、上は赤・下は白いスカートという衣装だったらしいです。写真はエンディングのみ確認できましたが、そこにひばりさんは映っていない様子でした。
第8回(1957年)「長崎の蝶々さん」
作詞・作曲:米山正夫
前歌手:宮城まり子、三橋美智也
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:水の江瀧子(紅組司会)
3年ぶりの紅白出場ですが、ブランクがあったにも関わらず初の大トリに抜擢されます。
1955年・1956年は紅白の裏で『オールスター歌合戦』がラジオ東京(現・TBSテレビ/ラジオ)で組まれ、出場歌手の争奪戦が起こりました。ひばりさんはこの2年そちらに出演、また他にもこの番組の存在で紅白初出場が遅れたと考えられる歌手も複数います(島倉千代子・青木光一・白根一男など)。
データ編でも書きましたが、前年までの紅白は明治~大正生まれのベテランがトリを担当していました。いわゆる当年のヒット歌手総出演・現在にまで繋がる紅白歌合戦の歴史が始まったのはこの年からという解釈も出来ます。
ステージは著書によると、チャイナドレスに濃い紫の扇を手にして歌うというスタイルだったそうです。1939年に渡辺はま子が「長崎のお蝶さん」をヒットさせて、翌年第9回の紅白でも歌唱していますが、先輩へのリスペクトもあったのかもしれません。実際この年に「夜来香」を歌った時の写真や、第24回(1973年)に「桑港のチャイナ街」を歌った時の渡辺さんもチャイナドレスに大きな扇という衣装でした。なおこの年から音声は残存、DVDボックスやNHK公開ライブラリーなどで聴くことが出来ます。
第9回(1958年)「白いランチで十四ノット」
作詞:石本美由起 作曲:万城目正
前歌手:宮城まり子、三橋美智也
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:黒柳徹子(紅組司会)
2年連続大トリ、白組トリ・三橋美智也も同様の組み合わせ。当時の一番人気同士のトリが続きます。
紅白のトリといえばスケール大きく歌い上げる演歌もしくはバラードというイメージが強い人もいるかもしれないですが、当時はまだそういった概念は存在していません。ひばりさんがこの年歌唱曲として選んだ「白いランチで十四ノット」は、港町をテーマにした軽快な楽曲です。水夫という言葉を意味する“マドロス”が耳に残りますが、この当時のひばりさんは「港町十三番地」「浜っ子マドロス」「ご機嫌ようマドロスさん」「三味線マドロス」など、マドロス歌謡の発表が非常に多い時期でした。
紅組司会を担当した徹子さんが何度となく各番組で語っていますが、新宿コマ劇場で開催されたこの回はとにかく周りの音が聴こえにくい状況だったようです。ステージ上では観客の声援も非常に大きく、もちろんイヤモニなども存在しない時代です。このステージはテンポの早い3コーラス歌唱ですが、3番の歌い出しが演奏とズレるハプニングが発生。この年はひばりさん以外でも同様の事例が起こった例があり、出演者やスタッフは大変苦労した年だったようです。実際、新宿コマ劇場が紅白で使用されたのはこの年のみでした。
第10回(1959年)「御存じ弁天小僧」
作詞:西沢 爽 作曲:米山正夫
前歌手:楠トシエ、春日八郎
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)
ひばりさんは歌手だけでなく女優としても実績多数で、公式サイトによると1958年~1971年にかけて165本の映画出演が確認できます。3年連続大トリとして披露された「御存じ弁天小僧」は、新春1月3日から公開の映画『ひばり十八番 弁天小僧』の主題歌でした。歌だけでなく演技でも多大な実績を挙げている点は、盟友の江利チエミや雪村いづみと共通しています。またこの年から3年連続紅組司会を務める中村メイコは若年期から芸能活動しているという部分でひばりさんと共通、大親友として知られています。
今でいう股旅演歌物で、「弁天小僧」といえば1955年に三浦洸一が大ヒットさせていました。1960年代前半は橋幸夫がこの手の楽曲を多く歌っていましたが、このテーマの大ヒットは2000年代前半の「箱根八里の半次郎」「大井追っかけ音次郎」の氷川きよしが最後でしょうか…。紅白では第65回(2014年)の「ちょいときまぐれ渡り鳥」が最後だと思います。
第11回(1960年)「哀愁波止場」
作詞:石本美由起 作曲:船村 徹
前歌手:森山加代子、春日八郎
後歌手:江利チエミ、森繁久彌
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)
この年は同じコロムビアレコード所属の後輩歌手・島倉千代子に紅組トリを譲り、自身は前半大トリで歌う形になりました。
船村徹が提供した楽曲は裏声から入る歌い出しで、タイトル通り”哀愁”という言葉がしっくりくる演歌となっています。前年初開催となった日本レコード大賞の歌唱賞に選ばれた楽曲です。和服姿での歌唱、2コーラスにセリフも入る構成でじっくり歌い上げるステージでした。
なおこの次の江利チエミ「ソーラン節」で歌唱後に登場、頬にキスする写真が残っています。
第12回(1961年)「ひばりの渡り鳥だよ」
作詞:西沢 爽 作曲:狛林正一
前歌手:三橋美智也、江利チエミ
後歌手:橋 幸夫、宮城まり子
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)
前年に続き中盤での登場、おそらく江利チエミ「スワニー」の後に攻守交代して後半トップバッターという曲順だと思われますが、定かではありません。なお大トリは島倉千代子でなく三波春夫が担当しています。
楽曲は当時の最新リリース曲で、前年と違って軽快な内容です。この年は「車屋さん」が大ヒットしていますが、紅白では残念ながら一度も歌われていません。1991年に「お祭り忍者」同様忍者が「おーい!車屋さん」としてカバー&アレンジ、同年に「お祭りマンボ」収録で8cmシングルが再発されています。
第13回(1962年)「ひばりの佐渡情話」
作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
前歌手:ザ・ピーナッツ、春日八郎
後歌手:北原謙二、中尾ミエ
曲紹介:森 光子(紅組司会)
ひばりさんは紅組から17回出場していますが、番組前半で歌ったのはこの年が唯一です。紅組6番手での出演でした。前年までと同様番組本編は音声のみ残存している状況ですが、この年は歌唱シーンがニュース映像で残っています。楽曲は同名の映画主題歌として大ヒットしました。
映画は東映専属でしたが、この年11月に日活専属の小林旭と結婚。曲紹介でもしっかり触れられます。母親の反対もあって1964年に離婚、その後は独身を貫きました。小林さんも既に映画だけでなく「ひばりの渡り鳥だよ」「さすらい」など多数の大ヒット曲を持つスター歌手でもありましたが、紅白出場は「昔の名前で出ています」がヒットした第28回(1977年)まで待つ形となります。
船村徹の楽曲提供は「波止場だよ、お父つぁん」「浜っ子マドロス」、さらに1987年の「みだれ髪」他多数ありますが、ひばりさんへの提供曲がトリで歌われる機会は一度もありませんでした。ヒット曲は既に多数ある状況でしたが、提供曲が初めてトリで歌われたのは第26回(1975年)の島倉千代子「悲しみの宿」で意外と遅いです。船村さんは当時コロムビア専属で、同い年で当時同レーベル専属の遠藤実は作曲家としてライバル関係にあったようですが、こちらは第12回(1961年)の島倉千代子「襟裳岬」で早くもトリ歌唱実現となりました。
第14回(1963年)「哀愁出船」
作詞:菅野小穂子 作曲:遠藤 実
前歌手:中尾ミエ・伊東ゆかり・園 まり、三波春夫
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:江利チエミ(紅組司会)
この年は全編映像が残っています。ステージの様子はこちらで既に記載しているので、ここでは省略します。当時まだ26歳ですが、着物姿で歌うひばりさんの姿は既に絶大な風格が備わっていました。まだ当時はトリのファンファーレなど存在せず、それどころかアウトロが終わらないうちにひばりさんはマイクから離れて袖に移動しています。ちなみにひばりさんがトリでない3年間は白組勝利が続いていましたが、この年4年ぶりに紅組が優勝旗を奪還しています。「歌謡界の女王」というフレーズが曲紹介で使われたのは、この年からではないかと思われます。
遠藤実は1965年までコロムビア専属でしたが(その後徳間ジャパンの前身・ミノルフォンレコードを設立)、ひばりさんへの楽曲提供は「初恋マドロス」とこの曲くらいで多くありません。その数少ない1曲が大トリに選ばれる辺り、船村さんとは違う巡り合わせを感じます。そういえば遠藤氏は逝去された2008年に紅白で追悼コーナーが設けられ、国民栄誉賞も受賞しましたが、船村氏が逝去した2017年はそういった類の演出・表彰があまり目立ちませんでした(ただ遠藤氏の正四位を上回る従三位に叙されています)。
第15回(1964年)「柔」
作詞:関沢新一 作曲:古賀政男
前歌手:ザ・ピーナッツ、坂本 九
後歌手:三波春夫、エンディング
曲紹介:江利チエミ(紅組司会)
この年開催された東京オリンピックでは、初めて柔道が正式競技に採用されています。当時は日本テレビ系のドラマ『柔』の主題歌でもありました。11月に発売されたばかりの新曲という位置づけですが、これが翌年にかけて大ヒットする形になります。
映像は残念ながら残っていませんが、音声は残存しています。原曲よりもかなり遅いテンポで、途中間奏で柔道の演舞が入ったと思われる演出でした。
第16回(1965年)「柔」
作詞:関沢新一 作曲:古賀政男
前歌手:こまどり姉妹、橋 幸夫
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:林美智子(紅組司会)
この年第7回日本レコード大賞受賞、レコ大受賞曲が大トリで歌われる初の事例になりました。2年連続同じ曲でトリはその後も第71回(2020年)のMISIA「アイノカタチ」まで55年間無く、第70回はメドレーだったのでそれを抜きにすると現在も唯一の記録になっています。
1960年代の紅白では唯一カラー映像が残っている回となります。袴姿で階段から登場するひばりさん、降りた先には下駄が用意され、それを履きながら歌うステージでした。間奏では、「格好良い」と声援を贈るファンに投げキッスをするシーンもあります。コンサートで何度も共演している紅組指揮担当・原信夫との目を合わせるシーンも印象深いです。ラストは「芸者音頭」を歌った江利チエミと一緒に舞台袖へ去る演出でした。
江利チエミ・雪村いづみと3人が一緒に出演する紅白は、この年が最後となります。雪村さんは渡米のため翌年不出場、江利さんは第20回(1969年)で落選してから生涯辞退を通す形になりました。番組前半では応援合戦でチエミさんが2人の声マネをした後に本人たちが登場して、ツッコミを入れられるシーンがありました。「生まれたのも3人一緒」「テレビに出るのも3人一緒」「紅白歌合戦もいつも一緒」「で、優勝旗を持って帰るのももちろん」「みんな一緒!」という威勢の良さでしたが…。
第17回(1966年)「悲しい酒」
作詞:石本美由起 作曲:古賀政男
前歌手:西田佐知子、フランク永井
後歌手:三波春夫、エンディング
曲紹介:ペギー葉山(紅組司会)
言わずと知れた代表曲中の代表曲で、紅白でもトリで歌われている楽曲ですが、大トリでないのは今考えると大変意外です。
この曲の肝と言えば間奏に入るセリフですが、紅白で披露はされていません。それもそのはず、セリフ入りのアレンジが収録されたのは1967年3月のことで、放送時点ではセリフ自体が存在していません。そもそも楽曲も実はオリジナルではなく、1960年に北見沢惇という歌手が歌った楽曲が初出でした。その北見沢さんはこの年に30歳の若さで亡くなったそうです。
この年になると、「もう何も言うことはございません」というフレーズが曲紹介で入るようになります。歌い出しでは観客席から「大統領!」の掛け声もありました。残存している映像は白黒で画質も悪いですが、情感たっぷりの歌唱はまさに絶品。大トリの三波春夫が歌う浪曲歌謡「紀伊国屋文左衛門」が一般的に馴染みのない曲だったこともあったでしょうか、最終審査は22対3という大差で紅組優勝という結果になりました。
第18回(1967年)「芸道一代」
作詞:西條八十 作曲:山本丈晴
前歌手:ザ・ピーナッツ、三波春夫
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:九重佑三子(紅組司会)
1967年はジャッキー吉川とブルー・コメッツと共演した「真赤な太陽」が大ヒットしましたが、当のブルコメは白組歌手として「ブルー・シャトー」で出場。当時の紅白で紅組白組歌手の共演は全く考えられないことで、結果的には別の曲を選曲する形になりました。とは言え「芸道一代」は芸能生活20周年記念曲、この年から10年間にわたって5月29日に発売されるアルバム『歌は我が命』シリーズにも収録されています(というよりシングルはこのアルバムからのカットでした)。後年のコンサートでも多く披露されている楽曲です。
和服姿でどっしりと構える、風格・貫禄とも十二分に備わった名ステージです。ただこの年の九重さんは史上初となる戦後生まれの紅組司会、ここから少しずつ出場歌手も世代交代が進み始めます。
第19回(1968年)「熱祷」
作詞:川内康範 作曲:小野 透
前歌手:黛ジュン、橋 幸夫
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)
弟である小野透は姉のひばりさんとともに東映専属の俳優としてデビューしますが、引退後ヤクザに転向して数回逮捕されます。この年から作曲家に転向してひばりさんに楽曲提供、翌年に芸名もかとう哲也と改めて再スタートを切ります。結果的に彼の存在が、この年以降ひばりさんの紅白史に大きく関係することになりました。
演歌ではありますが、この年はドレス姿の歌唱です。ステージは完全暗転で、スポットライトとセットの照明のみが光る演出でした。文句なしの熱唱で最後を飾る内容でしたが、個人的にはどちらかと言うと歌の上手さより曲の暗さが勝っていた印象が強いです。
第20回(1969年)「別れてもありがとう」
作詞:三浦康照 作曲:猪俣公章
前歌手:都はるみ、森 進一
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:宮田 輝(総合司会)
この年の紅白歌合戦は、いよいよ本格的に若手切り替えの波が訪れた年でした。長年の盟友・江利チエミや同年に紅白初出場を果たしたペギー葉山が落選、中堅~ベテラン陣が軒並み過去の持ち歌を選曲されています。この年から夏の紅白と言われた『思い出のメロディー』が放送開始されて大好評、本編紅白もその波に乗る形となりました。
実はひばりさんも「悲しい酒」の歌唱を依頼されたらしいですが、それを断ったというエピソードがあります。青江三奈「池袋の夜」でトップバッターを飾る紅白になりましたが、本来はこちらをトリにする予定だったそうです。なお平成以降とは違い、当時過去曲で紅白トリを飾った例はありません。
実際この年から周囲もひばりさんに多少気を遣う様子が見受けられ、例えば奥村チヨ「恋泥棒」では他に紅組歌手が歌手席で総立ちのところ座っている様子が見受けられます(奥村さんの後ろで笑顔の表情は見せていましたが)。歌以外で唯一目立っていたのはゲストの森繁久彌が登場したシーンで、森繁さんが「ゴンドラの唄」を一節歌ったところ途中からひばりさんが合流する…という場面がありました。また曲紹介もこの年はひばりさんに限った話ではありませんが、紅組司会の伊東ゆかりではなく総合司会の宮田輝アナウンサーが担当しています。
「別れてもありがとう」はオリコンTOP100にも入らずヒットしていませんが、ステージは前年と違ってショーアップされた内容でした。ドレス姿をファーをまとった姿は今までになく派手で、これまでの紅白とは内容がかなり異なります。
この年はブルコメが不出演、そのため井上忠夫がサックス演奏で参加。レコードデビュー前の第16回(1965年)にザ・ピーナッツのステージで演奏を担当したことはありますが、出場歌手として実績のあるミュージシャンがゲスト演奏で登場するのはこれが初の事例です。ひばりさんは本来演歌に限らず全ジャンルを歌いこなせる歌手ですが、紅白でポップス色の強いステージはこの時のみ。貴重なステージであるとともに、意義も大変大きい内容になっています。
第21回(1970年)「人生将棋」
作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也
前歌手:青江三奈、森 進一
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:宮田 輝(白組司会)
越路吹雪や春日八郎もいなくなり、江利チエミも一度は出場歌手として発表されたもののその後辞退を表明。いよいよひばりさんが出場歌手の中で紅白最古参になりました。世代交代がさらに激しくなった状況ですが、その中で紅組司会を立派に務めあげます。この年の映像は白黒とフィルムのみで一部全く残っていない部分もあり、本人の司会ぶりが断片的にしか分からないのが非常に残念ですが…。ステージは3コーラス、どっしりと歌い上げてラストを締めました。もちろん最終結果は、紅組の優勝です。
ひばりさんの応援としては、大ファンだという俳優・小沢昭一が”ひばり党総裁”として登場したシーンが特集番組などで振り返られています。後年山川静夫アナが記した著書によるとこれは予定外の大演説になったそうで、ひばりさん自らが彼を止めに入るという始末。おかげで徳島から上京した阿波踊りの面々が踊るシーンが丸々カットになってしまったらしいです。
第22回(1971年)「この道を行く」
作詞:石本美由起 作曲:市川昭介
前歌手:水前寺清子、森 進一
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:長谷川一夫
芸能生活25周年を迎えたこの年は、いよいよ記者会見で「トリ以外は出ません」と母親・喜美枝さんとともに表明。当然局内の非難は多かったようですが、ふたを開けると出場歌手発表の時点でトリ確定という状況でした。
出場歌手は世界歌謡祭の実績で雪村いづみ、「雨がやんだら」のヒットで朝丘雪路、さらに宝塚出身のスター・真帆志ぶきといったベテランが加わりました。チエミさんはいませんが、代わりに真帆さんの参加で雪村さんも一緒に3人のスペシャルステージも別個で用意されました。歌われた曲はミュージカル『アニーよ銃をとれ』の挿入歌「男にゃ負けない」の替え歌で、過去にチエミさんが主演したことのある作品でもあるようです。
大トリのステージも破格で、白組トリ・森進一「おふくろさん」の歌唱後に芸者姿の長谷川一夫が登場。ひばりさんの「むらさき小唄」をバックに女形の舞を披露した後、「ウーマン・リブの世の中」ということで紅組応援を表明してひばりさんを紹介。長谷川さんといえば戦前からの大スターで、逝去時に国民栄誉賞を受賞するほどの存在です。これまでの21回どころか、この後の紅白でも全く見られないような厚遇でした。
楽曲は1972年1月10日発売のシングル「ひばり仁義」に収録、既に自身のコンサートでは歌っていたと思われますが公式には発売前の作品でした。紅白を通してという単位では後年にもいくつかありますが、大トリで発売前の楽曲が披露されたのもこれが唯一です。
舞を披露した後に長谷川さんの相手をしたのは白組司会の宮田輝アナで、紅組司会の水前寺清子は曲紹介に一切登場せずでした。これが放送後週刊誌に確執があったと報じられ謝罪会見を開く羽目になりましたが、当然これは演出上の一環だったようです。本人もこちらの記事でそれを表明しています。ステージは大変素晴らしいものでしたが、やはり審査員の目にもこの演出はやり過ぎだと映ったのでしょうか、最終審査の結果は白組の勝利でした。
第23回(1972年)「ある女の詩」
作詞:藤田まさと 作曲:井上かつお
前歌手:水前寺清子、北島三郎
後歌手:(なし、エンディング)
曲紹介:佐良直美(紅組司会)、宮田 輝(白組司会)
さすがに前年が大々的過ぎた演出という部分もあったのでしょうか、厚遇は多少抑えられています。初出場で紅組トップバッターを務めた天地真理の歌唱後に笑顔で声をかけるシーンもありました。この年またまた実弟・かとう哲也が暴行で逮捕されますが、この時点ではまだ出場選考に影響ありません。ただ出場歌手の世代交代はさらに進み、8回以上出場の常連歌手が9組も落選する波乱っぷりでした。
大トリは紅組司会の曲紹介が4年ぶりに復活、さらにイントロで宮田輝アナのアナウンスが加わります。
「紅白の最後と言えばこの方です。この方の歌声を聴かなければ新しい年はやってまいりません。美空ひばりさんです!」「この道一筋26年、紅白最多出場17回、1972年の歌い納め美空ひばりさん、「ある女の詩」。」(第23回・佐良直美、宮田 輝)
— 昭和の紅白名言集 (@kouhakumeigen1) November 30, 2021
紫色のドレスにファーも入った、派手なドレスでの歌唱です。歌い出しマイクの高さが合わなかったようで、少し調節する場面がありました。この頃になるとコードマイクが主流になり、片手でマイクを使いながら歌う歌手が大半になりましたが、ここではあらかじめ設置されている固定マイクで両手を広げながら歌います。このマイクが用意されていることが、出場歌手の中でも別格の存在であることを示しています。ラストに転調してオリジナルにはないエンディング演奏、後年トリで恒例となるファンファーレはこの年から始まる演出になっています。
年が明けて1973年、逮捕された実弟・かとう哲也が暴力団の舎弟頭であったことが問題視されます。細かく書くと紅白史から大きく外れるので省略しますが、結論を言うとこれを発端としたバッシングによる国民人気低下で第24回は落選という形になりました。以降大晦日はNETテレビでワンマンショー出演が恒例となり、NHK出演も1977年の『ビッグ・ショー』まで一旦無くなります。
第30回(1979年)「美空ひばりヒットメドレー」
「ひばりのマドロスさん」
作詞:石本美由起 作曲:上原げんと
「リンゴ追分」
作詞:小沢不二夫 作曲:米山正夫
「人生一路」
作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也
前歌手:島倉千代子、藤山一郎
後歌手:千 昌夫、小林幸子
曲紹介:中江陽三(総合司会)
騒動が落ち着いてからはNHKも毎年ひばりさんに出演交渉をしていましたが、辞退を表明。それが特別出演として叶ったのが、1979年記念すべき第30回紅白歌合戦でした。紅白の特別出演は第24回(1973年)の藤山一郎、渡辺はま子以来で、この回は戦前の代表・藤山一郎、戦後の代表・美空ひばりという形での出演となっています。辞退を表明し続けていたと言っても、出演発表の記者会見では嬉しさを隠しきれない様子でした。
中江アナの曲紹介で美空ひばりの名が読み上げられるや否や、会場からは大拍手。紅組白組歌手全員が出迎える中でまずは「ひばりのマドロスさん」を歌います。1コーラス歌唱後会場が暗転して「リンゴ追分」を聴かせます。合間合間に会場からの声援、それを待つように1番ラストを歌い上げる姿は、演奏も含めて職人そのものです。
ラストを飾る「人生一路」はテンポを速めるアレンジで、舞台を左右に動きながら全身で歌います。この年の紅組・白組出場歌手は特にスター揃いといったところでしたが、全員がノリノリです。ひばりさんの表情は笑顔ですが、その奥には万感の想いが込められているように見えました。第66回の紅白で天童よしみがカバーした時も、バックに当時の映像が映っています。
なおこの年以降も「おまえに惚れた」「裏町酒場」「愛燦燦」「みだれ髪」「川の流れのように」などをヒットさせていますが、紅白出演はこれが最後となります。身内や親友を次々失い、自身も1985年以降は病気のため紅白どころではない状況となります。1988年4月には東京ドームの不死鳥コンサートを成功させますが、この時点で満身創痍という状況でした。自身最後のテレビ出演で歌った「川の流れのように」は、本人にとって相当思い入れのある楽曲だったらしいです。1989年2月のコンサートが生涯最後のステージとなり、6月24日に52歳の若さで逝去。これは日本中に大きなショックを与えました。現在の1970年生まれに置き換えると桜井和寿・河村隆一・西川貴教に該当する年齢で、それだけ若くして亡くなったことが現在の人々にもよくわかるのではないかと思われます。
没後のステージ
第40回(1989年)では訃報のニュース原稿紹介、過去のNHK出演3ステージの映像を振り返った後、雪村いづみが「愛燦燦」を歌唱。ひばりさんに届けるように歌い上げましたが、やはり歌唱後の目は涙が溢れそうな様子でした。
第45回(1994年)はキム・ヨンジャが「川の流れのように」を歌唱。トリ2つ前の曲順、2コーラスを豊かな声量で歌い上げています。羽田健太郎のピアノ演奏もありました。
第50回(1999年)でも天童よしみが「川の流れのように」を歌唱。ドライアイスの演出が入る、非常にスケールの大きい熱唱でした。
第56回(2005年)でも同様に天童よしみが「川の流れのように」を歌唱。紅組トリという大役でしたが終盤かなりバタバタしている状況で、第50回ほど落ち着いた内容ではありません。スタッフの音声が入るハプニングまで発生しています。なおイントロで生前のひばりさんの写真が映像で登場しています。
第58回(2007年)では「愛燦燦」を提供した小椋佳が特別出演、生前の映像とデュエットしています。スクリーンではなく本人が横にいるような映像演出は、紅白史上初の試みでした。
以降は本編レビューに記載しているので、そちらを参照してください。
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