紅白名言集解説・53~怪我を押しての初出場ステージ~


 前回の記事では2014年をピックアップ。その中で、タモさんと徹子さんが31年ぶりに紅白出演と書きました。今回はその1983年紅白歌合戦の中から、明菜さんの初出場をピックアップします。

デビュー2年目にして、花の1982年組の出世頭に

 明菜さんのデビューは1982年5月1日「スローモーション」。この1982年はアイドルのデビューが相次ぎました。前年白組から初出場したシブがき隊を筆頭に、女性では小泉今日子、早見優、堀ちえみ、石川秀美、三田寛子、新井薫子、つちやかおり…。男性グループで事務所が強く最初から大ヒットしたシブがき隊は例外として、この年に日本レコード大賞の新人賞を受賞したのは早見優、堀ちえみ、石川秀美に前年10月デビューの松本伊代。明菜さんは最優秀どころか新人賞ノミネートにも漏れる形でしたが、レコード売上を見る限り一番最初に人気を得たのは間違いなく明菜さんでした。

 7月発売の「少女A」はオリコン年間売上34位でザ・ベストテンは年間12位、11月の「セカンド・ラブ」はオリコンで通算6週にわたって1位を獲得しています。売上だけで考えると、前の年に紅白初出場でもおかしくないくらいのヒットでした。1983年に入っても「1/2の神話」「トワイライト」「禁区」と3枚のシングルは全て大ヒット。「夏色のナンシー」がヒットした早見優とともに、1982年組の女性アイドル最初の紅白初出場を果たす形となります。

異例ずくめとなった紅白初出場

 さて明菜さんが紅白に初出場した当日は、かなり思いがけない形になりました。

 一つは曲紹介でも触れている通り、本番数日前に右膝を脱臼して怪我を押す形の出場になったということ。そのためこの年3つあった余興のショーコーナーには一切出られず。三波春夫とともにオープニングで選手宣誓を担当しましたが、もしかすると他の場面で出られなかった為に担当させたという形だったのかもしれません。明菜さんは当時18歳、対して三波さんは出場歌手最年長の60歳。司会者以外が選手宣誓を行った例はいくつかありますが、その中でも最大の年齢差になりました。

 もう一つはこの曲紹介がラジオ中継席から行われたということ。徹子さんは手話を取り入れたりショーコーナーで歌声を披露するなど、何かしら新しいことを紅白の司会で試みていましたが、これもその一環。したがって、ラジオ中継席のアナウンサーがテレビで紹介されるのも史上初となりました(この年は古屋和雄アナが担当)。ラジオのマイクを口に入れて喋るんですかという迷言も飛び出しましたが、これはTwitterの名言集にも入れているので後日また別個でネタにするかもしれません。

 ステージでも初めて試みられた演出が一つあります。それは、セリからセットごとオーケストラ全体が上昇して登場すること。前年までは紅組・白組それぞれ1つずつオーケストラが設けられましたが、この年は紅白一体になって前半・後半に分けられる形でした。前のステージまで、舞台下のオーケストラボックスで演奏していたのがダン池田とニューブリード・東京放送管弦楽団。セリから上昇して登場した方々は小野満とスイング・ビーバーズ・東京放送管弦楽団演奏中にオーケストラのセットがこれだけ大々的に動いたのは、紅白だとこれが唯一だと思います。バックバンドならこの時期沢田研二のステージで頻発していましたが…。

 怪我している右膝をかばいつつも、痛みの辛さを全く見せない明菜さんのステージは初出場ながらまさにプロフェッショナル。大変感動的でした。歌唱後に徹子さんから話しかけられ、それに笑顔で答える姿も素敵でした。この後に次のステージで歌う近藤真彦と白組司会・鈴木健二アナも登場して、ちょっとしたやり取りも繰り広げられます。

おわりに

 明菜さんの出場は、特別出演を含めると合計8回。極めて多い訳ではないのですが、その全てにおいて印象は強く書きたいことはいっぱいあります。またそのうち、書く機会を作ることにはなると思うので、その時まで楽しみにしてください。

 

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