応援6:正司敏江・玲児の応援~電気自動車の紹介
舞台袖から登場するのは正司敏江・玲児。公害と紅白を織り交ぜたどつき漫才を繰り広げます。内容は白く返して欲しい洗濯物を赤くして返したから喧嘩になる展開。かなりの早口で、正直聞き取れない部分もありましたが重要なのは喋りよりもアクション。玲児が敏江を押し倒した後、お返しに敏江がジャンプした後飛び蹴り→さらに玲児が飛び蹴り。その後も頭を叩くわ足でひっかけるわ人にぶつけるわでやりたい放題ですが、ぶつけられた側の人は笑福亭仁鶴。夫婦喧嘩を仲裁して赤と白のプラカード板を渡しますが、結局は間に入ることで2人にどつき回され、最後は渡した板で頭を叩かれるという散々な役回りでした。
一方劇場の外では坂本九が電気で動く無公害自動車を紹介。白い車に乗る女性を紹介した直後に「由紀子~」と叫ぶ九ちゃんは、まだ奥さんを紅組に連れ去られた傷が癒えていない模様。リポートする宮田アナはこの後に歌う千昌夫とトークしますが、九ちゃんの方は先ほどのドタバタ3人組が合流して何か話そうとしています。優先すべきは会場の進行、というわけで中継の方はあっさり切られてしまいました。
解説
・正司敏江・玲児は前年に続いて2年連続出演。画面所狭しと暴れまわる芸風はどつき漫才と呼ばれていました。当時は夫婦漫才でしたが1974年に離婚、ただその後も21世紀に入るまで漫才を続けます。玲児は2010年、敏江も2021年にそれぞれ逝去されました。
・笑福亭仁鶴も第21回~第23回まで3年連続応援で登場、当時は東京・大阪を股にかけて活躍する人気落語家・タレントでした。紅白歌合戦には平成に入ってからも第46回(1995年)、『バラエティー生活笑百科』MCとして紅組司会・上沼恵美子相談員の応援に加勢しています。
・電気自動車の歴史は意外に古く、実は19世紀イギリスで既に販売はされていたそうです。無公害自動車として紹介されましたが日本で脚光を浴びたのはオイルショック以降、ただ当時はなかなか普及に至らず。現在も販売数こそ過去最高を記録していますが、まだ完全にガソリン車から代わる存在にはなり切れていないようです。
白19(全体38):千 昌夫(4年連続4回目)
・1966年デビュー 第19回(1968年)初出場
・1947年4月8日生 岩手県陸前高田市出身
・楽曲:「わが町は緑なりき」(1971/9/2 シングル)
・詞:阿久 悠 曲:平尾昌晃
・演奏時間:2分17秒
「しかしね、やっぱりあの~、東京もいいけんどもね、あの~おらんとこの方もかなりいいんですよ。おらの方の出た人で、偉い人で、「ふるさとの 山に向かひて 言うことなし」なんて言った人がいるんです」「ふるさとの山はありがたきかな」ね。啄木の歌を詠まれました。千昌夫さん「わが町は緑なりき」」
2年前は東北出身なので無口だと紹介された千さんですが、今回の紅白は歌う前から方言で饒舌に話しまくっております。歌は素朴な歌謡曲、千さんの雰囲気によく合った内容でした。一方2番では電気自動車に置いていかれる九ちゃんの中継挿入、正直申し上げるとステージの扱いはあまり良くないような気がします。
解説
・やや長髪気味の髪型だった当時の千さんですが、歌手以外の事業はこの頃から始めたようです。翌年には不動産会社を自ら設立、ジョーン・シェパードとの結婚もこの年でした。
・歌手としてはこの年から低迷期に入り、1971年リリースのシングルはオリコン週間100位以内に入らず。紅白歌合戦も「北国の春」がヒットする第28回まで、5年間出られなくなります。
紅20(全体39):都はるみ(7年連続7回目)
・1964年デビュー 第16回(1965年)初出場
・1948年2月22日生 京都府京都市出身
・楽曲:「港町」(1971/10/10 シングル)
・詞:石本美由起 曲:猪俣公章
・演奏時間:2分26秒
「こんな悲しい恋ならば、好きになるんじゃなかったわ。演歌の神髄を五線紙に写して、都はるみさん「港町」どうぞ!」
青江三奈がメイクを調整、島倉千代子が飲み物を差し入れしてチータを応援。なんだかよく分からない演出ですが、歌にあった曲紹介の文言は見事でした。歌はタイトルが示す通り全国の港町を歌った曲ですが、この題材だとどうしても省かれる地域が発生するのは悩みどころ。ここでは3番、神戸・高松・広島がカットされました。とは言え歌声はやはり見事で、ミヤコ!と客席から飛ぶ声援も多め。歌い終わりには”日本一!”の声まで飛ぶ盛り上がりでした。
解説
・再放送ではこのステージに入った途端音声・映像ともに質が悪くなりました。カットされた跡もあり、合間にもう少し何かやり取りがあった可能性もあります。
・都はるみもこの時期は大ヒットが出ない頃でしたが、オリコン週間100位以内に数ヶ月入るくらいのヒットは毎年記録していました。「港町」は最高52位であるものの、19週にわたってランクインしています。
白20(全体40):三波春夫(14年連続14回目)
・1957年デビュー 第9回(1958年)初出場
・1923年7月19日生 新潟県三島郡越路町出身
・楽曲:「桃中軒雲右ェ門」(1960/2/XX シングル)
・詞:藤田まさと 曲:長津義司
・演奏時間:2分29秒
普段は序盤で紹介される演奏の面々ですが、今回は時間の都合でしょうかここまで全く紹介される機会がありませんでした。白組担当はお馴染み小野満とスイング・ビーバーズ、宮田アナと三波先生が一緒に紹介します。
「さあ三波さん、ひとつね、この辺で浪曲の一節などを入れて歌をたっぷりとお聴かせ頂きたいんです」「かしこまりました、「桃中軒雲右ェ門」を」「どうぞ」
お馴染み三波先生の浪曲歌謡、今回は1960年発表の「桃中軒雲右ェ門」。浪曲の部分は忠臣蔵の南部坂を歌っていますが、曲はあくまで浪曲師が演じる浪曲を三波先生が演じているという形。審査員席には芸術祭賞を受賞した3代目の浪花家辰造も座っていますが、やはり彼を映すショットも終盤挿入されました。
解説
・桃中軒雲右衛門は明治後期から大正にかけて活躍した浪曲師で、戦前には3度映画化もされました。三波春夫は1960年に発表されたシングルの他に、「桃中軒雲右衛門とその妻」と題した長編浪曲歌謡も発表しています。
・全国のNHKで設置されているアーカイブスでは、この曲の2番から後編として以前から映像が公開されています。実際このタイミングから、明らかに映像・音声ともに良くなっているのが見ていてもよく分かるかと思います。
中間審査
4回目の中間審査、紅組62・白組58から今度は紅組79・白組81。6点差をつけた白組が逆転に成功します。坂本九が跳び上がって大喜び、尾崎紀世彦は両手でレコード大賞でも見せたVサイン。「まことに紅白始まって以来の大激戦であります」と話す鈴木文弥アナですが…。
解説
・「また逢う日まで」で日本レコード大賞を受賞した尾崎紀世彦ですが、発表の瞬間におけるVサインは大変話題になりました。このジェスチャーが日本で一般的になったのも、1970年代前半ではないかと言われています。
白21(全体41):橋 幸夫(12年連続12回目)
・1960年デビュー 第11回(1960年)初出場
・1943年5月3日生 東京都荒川区出身
・楽曲:「次郎長笠」(1971/2/5 シングル)
・詞:藤田まさと 曲:吉田 正
・演奏時間:2分26秒
鐘の音が鳴り、白組歌手陣が小芝居を開始。親分を演じるのは派手な衣装の堺正章ですが、森進一が彼のカツラを取ったり逆さに装着するという小ボケを連発。五木ひろしもいますが、メインの手下は鶴岡雅義の模様。そこに決闘の相手として登場するのは若殿様を演じるちあきなおみ。マチャアキが威勢良く勝負してやると息巻きますが、鶴岡さんが裾を踏んでいるので前にぶっ倒れる大ボケ。笑いを堪えきれない様子のちあきさんと決闘する展開ですが、「お前ら先やんな」とマチャアキ親分あっさり撤退。へっぴり腰の鶴岡雅義もダメダメですが、さすがに本職の菊地剣友会が登場すると話は別。「親分助けて!」と叫ぶ若殿様、そこで颯爽と股旅姿の橋幸夫が登場。「強い強い、さっそうと登場「次郎長笠」橋幸夫さんです」、もっとも歌う直前階段の最後でズッコケそうになるハプニングもありました。
殺陣は歌う前だけでなく中盤でも存在、橋さんと菊地剣友会で見事な剣さばきを見せてくれました。「紅組でしょ?」「俺は白組だぜ」、一応紅組白組の設定は双方守っている様子です。
解説
・1970年代の橋幸夫は殺陣を交えた股旅ステージが定番になりますが、そのきっかけになるステージでもあります。一番最初にこの手のステージを披露したのは、第19回(1968年)白組トリで歌唱した「赤い夕陽の三度笠」でした。
・藤田まさと作詞・吉田正作曲のコンビは、この年大ヒットした鶴田浩二「傷だらけの人生」と同じです。ただ任侠の歌詞がNHK好みで無いことを理由に紅白は出られず、その後も1987年に逝去するまで生涯紅白歌合戦は不出場でした。
紅21(全体42):真帆志ぶき(初出場)
・1952年宝塚歌劇団デビュー
・1933年2月5日生 神奈川県川崎市出身
・楽曲:「嘆きのインディアン」
・訳詞:片桐和子
・演奏時間:2分26秒
「紅組はこの方がステージに上がりますと、ステージがグーンと広くなったような気がいたします。「嘆きのインディアン」、真帆志ぶきさん。スータン!」
先ほど宝塚歌劇団雪組のショーに加わった真帆さんですが、今度はスータンのステージに雪組が加勢。昨年まで男役のスターを長年務めた彼女の麗しい姿を堪能できる会心の内容でした。演奏も迫力たっぷりで最後はリフトの振付、スターという呼称がこれほど似合うステージもなかなか無いでしょう。
解説
・1952年に39期生として入団、雪組では1960年から1970年まで男役のスター。宝塚に絡んだ選曲は過去の紅白でもありましたが、専科になったとは言え現役の宝塚スターが歌手として紅白に出場するのは当時でも異例のことでした。なおこの年は直前まで紅組司会になる可能性が高かったとも言われています。
・宝塚歌劇団には『ベルサイユのばら』が大ヒットする直前の1975年まで所属、以降は劇場での舞台が主な活動になります。2020年3月に87歳で逝去。
・「嘆きのインディアン」はこの年ポール・リヴィア&ザ・レイダースの歌唱でヒット、ビルボードでは全米1位・年間6位を記録しています。
白22(全体43):布施 明(5年連続5回目)
・1965年デビュー 第18回(1967年)初出場
・1947年12月18日生 東京都三鷹市出身
・楽曲:「愛の終りに」(1971/4/20 シングル)
・詞:島津ゆうこ 曲:クニ河内
・演奏時間:2分27秒
「どうやら体操のようなものになったようでございますが、白の方は作曲の宮川泰さんの指揮で「愛の終りに」。布施明さんです」。
ほぼ間を置かずに始まるステージ、のっけから宮川泰先生の動きが派手です。指揮棒に銀色のテープも装着して演奏を煽るような動きもあり、とにかく目立っています。前回の布施さんは不死鳥をイメージした衣装のおかげで大変目立っていましたが、今回はノーマルなタキシードなのであまり目立っていません(大熱唱は前回ばりかそれ以上の凄さでしたが)。最後は白組歌手席に近づいて目の前にいた水原弘が爆笑している状況、しまいには指揮棒から紙吹雪まで舞う始末。見ている方は面白いですが、さすがにちょっと目立ち過ぎではないでしょうか。
解説
・第20回で初めて指揮を担当した宮川泰は第25回まで連続出演、おそらくこの年がもっとも派手なアクションだったように思えます。藤山一郎の後を継いだ平成期の「蛍の光」も同様で、年によっては電気で光る指揮棒を使ったりエンディングで歌手を差し置いて舞台真ん中に立ったりもしていました。
・布施明もレコード売上という点ではやや狭間にある時期で、この時に歌った「愛の終りに」はロングセラーですが週間最高30位。もっともこの年12月リリースの「何故」が最高12位のヒットを記録しますが、時期の問題もあり紅白では一度も歌われていない曲になっています。
紅22(全体44):弘田三枝子(3年連続8回目)
・1961年デビュー 第13回(1962年)初出場
・1947年2月5日生 東京都世田谷区出身
・楽曲:「バラの革命」(1971/3/10 シングル)
・詞:島村葉二 曲:いずみたく
・演奏時間:2分24秒
「美しゅうございました。さてこちらは素敵な彼女でございます。彼女にピッタリの歌「バラの革命」、弘田三枝子さんどうぞ!」
赤色のドレスにやや白っぽいのロングスカート、派手な色使いの衣装です。おそらくタイトルのバラをイメージしたものでしょうか。歌は2コーラスに最後繰り返しあり、彼女くらいの歌唱力ならば普通に歌っているだけでも名ステージ。それを証明するような内容でした。
解説
・歌唱力で聴かせる弘田三枝子も、「人形の家」以降はセールスが少しずつ低下傾向にありました。「バラの革命」もオリコンでは週間100位に入らず、結果紅白歌合戦の出場もこの年が最後になります。
・この時期は歌以外でもファッションなどで活躍、とりわけダイエット本が大ヒットしたと言われています。整形についても活動中何度も取り沙汰されてきました。
・ポップスに留まらない広いジャンルを開拓した弘田さんですが、2020年7月に逝去。ただ歌手としての人気は現在も高く、ファンだけでなく業界からも歌唱力・音楽性が高く評価されています。
白23(全体45):鶴岡雅義と東京ロマンチカ(4年連続4回目)
・1965年結成・デビュー 第19回(1968年)初出場
・21~38歳・7人組
・楽曲:「追憶」(1971/8/25 シングル)
・詞:山口あかり 曲:平尾昌晃
・演奏時間:2分12秒
「鶴岡雅義さんのレキントギター。そしてロマンチカの皆さんの美しいハーモニーで、この大晦日物想う日「追憶」をしっとりとお聴き頂きたいと思います。鶴岡雅義と東京ロマンチカの皆さん」
宮田アナのすぐ近くで鶴岡さんがギターを弾き、階段から登場するメインボーカル・三條正人がステージ真ん中、コーラスの5人は下手側にあるマイクを共用。カメラワークはやはり歌っている鶴岡さん中心、一応コーラスにもアップショットはありましたが一番右の方があえなくカットされてしまいました。歌はしっとりと2コーラス、三條さんの美声が響き渡るステージです。
解説
・菅原洋一と同じ1933年生まれの鶴岡雅義は、90代になった現在も活動中。鶴岡雅義と東京ロマンチカもメンバーは当時と全く違いますが、5人組のグループとして存続しています。
・一方メインボーカルの三條正人は2017年に逝去、コーラスも浜名ヒロシ・奥山浩章は既に逝去されています。他のメンバーの名前は山崎雅義・有沢幸男・松田直也ですが、彼らの動向については全くの不明です。
・レコードセールスはこの年やや低迷、「追憶」は週間最高81位でした。ただ翌年は「くちづけ」「秘密」がどちらもヒット、「秘密」は週間最高17位を記録しています。
紅23(全体46):佐良直美(5年連続5回目)
・1967年デビュー 第18回(1967年)初出場
・1945年1月10日生 東京都出身
・楽曲:「片道列車」(1971/10/5 シングル)
・詞:岩谷時子 曲:いずみたく
・演奏時間:1分54秒
「最近はなんですか、男性の長髪が流行っておりますけれども、私ショートカットですけれどもショートカットの女っていうのは本当は女らしくってね…。(自分の顔に指をさす佐良直美を見て)いやこの人はどうだかわかり…。歌唱力抜群…(嫌そうな顔で)かわいい。佐良直美さん「片道列車」をどうぞ」
仲の良いチータとコミカルなやり取りを見せましたが、歌は2年前のレコ大受賞曲「いいじゃないの幸せならば」コンビによるやや暗い内容の曲。低音の美声が映える曲であることも共通しています。間奏で紅組歌手2名のダンスもありましたがあまり映らず。最後は渾身のロングトーン・アカペラが見事に決まる、聴かせるステージのお手本のような名演でした。
解説
・水前寺清子と佐良直美は盟友同士、紅白で何度も仲良く共演する姿が映ります。この年以降1970年代の紅組司会は2人で分け合う形になりました(第29回を除く)。
・歌手としてはこの年辺りからヒットが無くなり、以降昭和期でオリコン週間100位以内にランクインしたのは第27回(1976年)歌唱曲の「ひとり旅」のみになります。それでも圧倒的なタレント性で第30回まで連続出場、5回の紅組司会も含めて1970年代の紅白歌合戦を代表する1人になりました。
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