紅白歌合戦・沢田研二の軌跡~データ編~

 今日から3日間は、ジュリーこと沢田研二の紅白歌合戦を特集します。

 ザ・タイガースのボーカルとしてデビューしたのは1967年2月5日。したがって今年は音楽活動55周年です。1948年生まれの73歳ですが、現在も精力的なライブ活動を展開しています。近年もさいたまスーパーアリーナのライブ中止、映画『キネマの神様』主演が話題になりました。

 平成以降の紅白歌合戦出場は第40回(1989年)と第45回(1994年)の2度のみで、以降はオファーがあっても辞退を貫いていますが、昭和期は第23回(1972年)以降ほぼ毎年出場している常連でした。歌謡史・放送史双方において革命的な存在であったジュリーですが、紅白歌合戦でも数々の伝説を残しています。この記事では数字的なデータとエピソードを中心に、残り2記事で各回ごとのステージやそれ以外のパフォーマンスを振り返ります。

沢田研二の紅白歌合戦エピソード

初クレジットは作曲家として

 ジュリーが歌手として初出場するのは第23回(1972年)ですが、放送で名前が登場したのは第21回(1970年)が最初でした。

 この当時はまだザ・タイガースとしての活動も続けていましたが、同時にザ・ピーナッツへの楽曲提供も始めた時期でした。その一つである「東京の女」が、第21回の紅白歌合戦で披露されています。「作詞:山上路夫 作曲:沢田研二」のクレジットが、曲名とともに放送で乗りました。なお作詞者作曲者の名前がテロップ表記されたのはこの年が初めてです。

 自作の曲が紅白で歌われたケースは3回ありますが、提供した楽曲が紅白で歌われたのはこれが唯一です。ソロ活動以降はそういったケースが一旦無くなりますが、1980年代に再開。アン・ルイス「ラ・セゾン」などをヒットさせています。

 ピーナッツの伊藤エミとは1970年時点で交際中だったらしく、1975年に結婚。その後1987年に離婚後、1989年に女優の田中裕子と再婚。田中さんとの交際のきっかけは映画での共演だったようですが、1980年代後半には「プリマドンナ」などの楽曲提供もありました。

専属バンドの持ち込み

 第23回、「許されない愛」での初出場はザ・いのうえバンドを引き連れてのステージでした。

 出場歌手がゲストバンドを持ち込んだ例はそれ以前にもいくつかあります。第15回(1964年)の橋幸夫、第16回(1965年)のザ・ピーナッツ植木等など。既にバンドグループの出場はジャッキー吉川とブルー・コメッツピンキーとキラーズなどチラホラ出ています。

 ザ・タイガース解散後に萩原健一などGS仲間とPYGを結成しますが、結果的に萩原さんは俳優としてブレイク。「気がつけば」という書き方はおそらく適当ではないと思いますが、結果的にジュリーのボーカル・残りのメンバーがバックバンド化したというのが実情のようです。細かいことを突き詰めるとかなりの長文になるので、別途グループサウンズや沢田さんに関する著書を確認してください。

 音楽番組に専属バンドを持ち込んだのはジュリーが初めてと言われていますが、紅白歌合戦も全くの同様です。最初にジュリー、その後に西城秀樹、以降1980年代に入ると自身の専属バンドを抱えて紅白に初出場するケースも出現しました。

ステージ上でのパフォーマンス

 第25回(1974年)、「追憶」のステージでは右手から白い鳩を登場させるマジックを披露します。余興でマジックらしいことをやるシーンはこれ以前にもありましたが、歌手のステージではこれが初でした。

 第30回(1979年)の「カサブランカ・ダンディ」では、口にウォッカを含ませて噴射するパフォーマンス。この曲ではお馴染みの演出ですが、紅白では他に例がありません。

 第32回(1981年)・第33回(1982年)では生演奏のオープニングSEが登場時に入りました。これも当時紅白初めての試みです。

 第35回(1984年)では突如銃に打たれて血を出すパフォーマンスを披露。これは胸に特効の演出を仕掛けて、赤ワインらしきものをそこから流すという内容です。これは歌手の体に演出を仕込む史上初のケースでした。

 いずれも詳しくは次記事以降、各年ごとに振り返る際に書く予定です。

昭和では異例の大トリ選出

 第29回(1978年)、この年は演歌が空前というくらいにヒットしなかった年でした。1960年代は「あの娘と僕」を歌う橋幸夫の例もありますが、もうこの頃には紅白のトリ=演歌という図式が完成されています。1970年代、紅組は美空ひばり島倉千代子都はるみ八代亜紀、白組は森進一北島三郎五木ひろしと担当。1975年には「シクラメンのかほり」で日本レコード大賞を受賞した布施明という声もありましたが、最終的には五木さんの初選出となります。

 演歌勢で全く大ヒットがなかった1978年、トリに選出されたのは山口百恵とジュリーでした。キャリア・実績もあって大トリは百恵さんではなくジュリー、見事に「LOVE(抱きしめたい)」を熱唱します。

 ちなみに翌1979年はその反動と言わんばかりに演歌で大ヒットが続出、以降終盤はしばらく演歌でほぼ固められる状況になりました。1970年代はジュリーや布施さん、ちあきなおみ小柳ルミ子などが終盤に入るケースも珍しくなかったですが、以降は1990年代後半の安室奈美恵SMAPまでそういったケースが出なくなります(和田アキ子谷村新司は一応演歌でないですが…)。

2名義での紅白歌合戦出演

 第40回(1989年)、この年は史上初めて19時20分から放送された紅白歌合戦でした。21時までの前半を「昭和の紅白」、以降を「平成の紅白」として、同じ番組ですが実質別物扱いとして放送されます。

 ジュリーは後半ソロで「DOWN」を歌いますが、前半はザ・タイガースのメンバーとして出演。1967年~1969年は紅白歌合戦に選ばれて当然の人気・売上を記録していましたが、ライブでの事故や長髪が時のNHK会長に嫌われて出場できなかったという経緯があります。GSが乱立していた当時、紅白歌合戦に出場できたのは長髪が似合わないということでスーツ姿にしていたジャッキー吉川とブルー・コメッツだけでした。

 21世紀以降はハロプロ内ユニット、AKB48とその系列グループ、EXILE三代目J Soul Brothersの兼任で2名義出演も珍しく無くなりましたが、20世紀ではこれが唯一のケースです。

17回の紅白歌合戦出場は全て異なる曲

 第45回(1994年)まで計17回紅白歌合戦に出場していますが、同じ曲を歌ったケースは一度もありません。また過去曲を選曲したケースもありません。

 17回以上出場して全て別の曲、という歌手は他に水森かおり小柳ルミ子がいます。ただ2人ともカバー曲の選曲があるので、それを省くと完全にジュリーのみとなります(ザ・タイガースの例はありますが)。この条件に当てはまる歌手で次点を挙げると、11回出場の野口五郎なので意外といないです。実際これは他になかなか例のない記録で、2021年出場歌手で最多は三山ひろし星野源の7回という状況です。

 ちなみに17回出場時点で全て過去曲・カバーを除く別の曲、となると五木ひろし森進一も条件に当てはまります。20年連続その年発表のシングル曲だった細川たかしは「矢切の渡し」「浪花節だよ人生は」「さだめ川」が実はカバーなので、ちょっと微妙でしょうか。水森かおりも18回までは全て異なるご当地ソングでした。

 現役ミュージシャンとして新しい曲を歌うことに対する拘りは非常に強く、1990年代は一時期過去映像の使用を許可しなかった時期もありました。現在もテレビ出演で往年のヒット曲を歌うことは滅多に無く、コンサート主体の活動となっています。CDシングルも2020年発売の「Help! Help! Help! Help!」がオリコンで、35年ぶり週間TOP20入りという記録を作っています。

沢田研二の紅白データ~17回分のまとめ

 最後は歌唱曲データです。細かくはまたステージ編で振り返る予定です。なおアルバムからのシングルカットは、元となるアルバム発売日も表記しています。

出場回
年齢
歌唱曲作詞者
作曲者
発売日曲順主なデータ主な受賞他の発売曲
第23回
(1972年)
24歳
許されない愛山上路夫
加瀬邦彦
1972/3/10白組トリ3つ前1972年オリコン年間27位・日本レコード大賞歌唱賞・あなただけでいい
・死んでもいい
第24回
(1973年)
25歳
危険なふたり安井かずみ
加瀬邦彦
1973/4/21白組16番手/23組中1973年オリコン年間5位・日本レコード大賞大衆賞
・日本歌謡大賞受賞
・あなたへの愛
・胸いっぱいの悲しみ
・魅せられた夜
第25回
(1974年)
26歳
追憶安井かずみ
加瀬邦彦
1974/7/10白組トリ2つ前1974年オリコン年間11位・日本レコード大賞歌唱賞・恋は邪魔もの
・愛の逃亡者
第26回
(1975年)
27歳
時の過ぎゆくままに阿久 悠
大野克夫
1975/8/21白組15番手/25組中1975年オリコン年間4位・日本歌謡大賞放送音楽賞・白い部屋
・巴里にひとり
第28回
(1977年)
29歳
勝手にしやがれ阿久 悠
大野克夫
1977/5/21白組19番手/24組中1977年オリコン年間4位・日本レコード大賞受賞
・日本歌謡大賞受賞
・さよならをいう気もない
・憎みきれないろくでなし
第29回
(1978年)
30歳
LOVE(抱きしめたい)阿久 悠
大野克夫
1978/9/10大トリ1978年オリコン年間36位、
翌年同81位
・日本レコード大賞最優秀歌唱賞
・FNS歌謡祭グランプリ
・サムライ
・ダーリング
・ヤマトより愛をこめて
第30回
(1979年)
31歳
カサブランカ・ダンディ阿久 悠
大野克夫
1979/2/1白組14番手/23組中1979年オリコン年間26位・日本レコード大賞金賞・OH! ギャル
・ロンリー・ウルフ
第31回
(1980年)
32歳
TOKIO糸井重里
加瀬邦彦
1980/1/1
(1979/11/25)
白組6番手/23組中1980年オリコン年間39位・恋のバッド・チューニング
・酒場でDABADA
第32回
(1981年)
33歳
ス・ト・リ・ッ・パ・ー三浦徳子
沢田研二
1981/9/21
(1981/6/10)
白組14番手/22組中1981年オリコン年間74位、
翌年同84位
・日本レコード大賞金賞・おまえがパラダイス
・渚のラブレター
第33回
(1982年)
34歳
6番目のユ・ウ・ウ・ツ三浦徳子
西平 彰
1982/9/10白組15番手/22組中1982年オリコン年間57位・日本レコード大賞金賞・麗人
・おまえにチェックイン
出場回
年齢
歌唱曲作詞者
作曲者
発売日曲順主なデータ他の発売曲
第34回
(1983年)
35歳
晴れのちBLUE BOY銀色夏生
大沢誉志幸
1983/5/10白組6番手/21組中1983年オリコン年間129位・背中まで45分
・きめてやる今夜
第35回
(1984年)
36歳
AMAPOLA湯川れい子
J. M. Lacalle
1984/9/25白組12番手/20組中1984年オリコン年間255位・どん底
・渡り鳥 はぐれ鳥
第36回
(1985年)
37歳
灰とダイヤモンド李 花幻
李 花幻
1985/8/8白組13番手/20組中1985年オリコン年間159位
第37回
(1986年)
38歳
女神阿久 悠
佐藤 隆
1986/10/22白組6番手/20組中オリコン週間最高47位・アリフ・ライラ・ウィ・ライラ~千夜一夜物語~
第38回
(1987年)
39歳
チャンス松本一起
沢田研二
1987/11/16白組13番手/20組中オリコン週間最高32位・きわどい季節
・STEPPIN’ STONES
第40回
(1989年)
41歳
DOWN尾上 文
NOBODY
1990/2/7
(1989/10/11)
白組後半11番手/20組中オリコン週間最高81位・Muda
・ポラロイドGIRL
第45回
(1994年)
46歳
HELLO秋元 康
後藤次利
1994/11/16白組後半7番手/15組中オリコン週間最高93位・YOKOHAMA BAY BLUES

 

 

コメント

  1. いつも楽しみに観させて頂いております。新沼謙治さんは、確か『新雪』という灰田勝彦さんの曲をカバーしてなかったですかね? 確かに、思い付く人調べたら10回ほど出場している人でこの人は!って方がことごとく一回でも過去曲やカバー曲歌ってますね。→浜崎あゆみさんや岩崎宏美さんも完全新曲ではなかったです。‥野口五郎さんすごい!

  2. しまった!1982年の名曲紅白で「新雪」を歌ってたのすっかり抜け落ちてました。
    即刻訂正致しました。ご指摘ありがとうございます!

  3. すごい!手早くありがとうございます。話がちょっとそれますが、昔の紅白は、歌ってる間奏あたりで出身地と(出場4回)って感じのテロップが出てましたが、あれ大好きでした。特に、第34回の松田聖子さんのガラスの林檎の場面でのテロップが、『高級感』ある雰囲気が出ていて最近何度も見返しています。

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