紅白歌合戦・三波春夫の軌跡~ステージ編(1983~1999)

第34回(1983年)「放浪茣蓙枕」

ステージ

作詞:星野哲郎 作曲:安藤実親
前歌手:沢田研二、(紅白俵つみ合戦)、島倉千代子
後歌手:牧村三枝子、千 昌夫
曲紹介:鈴木健二(白組司会)
踊り:花柳糸之社中

 島倉千代子に続く形でステージが始まります。第12回(1961年)ではトリ対決、その後も前半トリや終盤で組まれることが多いカードですが、この年はもう前半7番手になっています。26年連続出場していたフランク永井が落選、彼に次ぐ三波先生もこの年はラスト数枠を決める「ご意見を伺う会」でギリギリ出場が決まるという状況にまでなっていました。

 星野哲郎作詞・安藤実親作曲。この年の紅白で披露された楽曲は浪曲歌謡でも明るいおけさ調の曲でもないシンプルな演歌です。振り返ると、この時点で26回出場した三波先生がこういった曲を歌うのは初めてのことでした。”春を 春をたずねて江差へきたら”の歌い出し、歌詞テロップは1回目の”春を”が手書き状の字体になっています。ここだけ後から付け加えた跡があるように見えました。

 大きな木のセットをバックに、床面ドライアイスの演出が入る中の熱唱です。花柳糸之社中もいますが黒い緞帳の前に8人がいるのみ、動きも少なくほとんど目立たない状況でした。

応援など

 両軍司会が1人ずつそれぞれの出場歌手を紹介するオープニングでは、「今年は日本の歌の心を歌いたい。三波春夫さん!」鈴木健二アナによって紹介されました。もちろんお馴染みの手を広げるポーズを披露しています。その後初出場の中森明菜と一緒に初めて選手宣誓を担当。還暦を迎えた三波先生、明菜さんとは42歳差でした。

 紅白出場歌手が一斉に踊る「ビギン・ザ・ビギン」ショーでは、メキシカンの格好で村田英雄と締めを担当。♪ビギン・ザ・ビギン~と2人揃って歌う前に村田先生の「ハイ」がマイクに入り、後ろにいた岩崎宏美が大笑いしています。自身のステージの直前に組まれた「紅白俵つみ合戦」は不参加でした。

 後半の『日本の四季メドレー』も、「村祭り」の音楽に乗せて村田英雄と一緒に神輿を先導するだけで出番終了。ちなみに神輿を担いでいたのはアルフィーの3人でした。

第35回(1984年)「大利根無情」

ステージ

作詞:猪又 良 作曲:長津義司
前歌手:大川栄策、森 昌子
後歌手:島倉千代子、北島三郎
曲紹介:鈴木健二(白組司会)

 第32回以降前半の出番が続きましたが、この年は久々にトリ3つ前の終盤。島倉千代子「からたち日記」とともに、紅白3度目となる往年の名曲対決を披露します。なおこの年も出場は当落線上。「ご意見を伺う会」でギリギリ当選となった決め手は、高齢者ではなく若い女性会員の「田舎のおじいちゃん、おばあちゃんが楽しみにしている」という意見でした。

 曲ごとに衣装を変える白組司会・鈴木健二は、わざわざ着流しの衣装にチェンジしています(もっともその後の北島三郎五木ひろしまではそのまま着用でした)。イントロで来年の抱負を聞かれて「「限りなき夢」という万博の讃歌で頑張ります」と答える三波先生、チェッカーズの7人に先導されてスタンドマイクの前に移動します。

 11年前よりキーを少し下げての歌唱、それによって渋味がより加わるパフォーマンスとなりました。セリフの後には、特別審査員・市川海老蔵(翌年に團十郎を襲名)の表情も映ります。1983年~1988年の紅白歌合戦は過去曲を歌うケースが非常に少ない時期だったので、その意味では非常にレアなステージだったとも言えそうです。

応援など

 対戦カードごとに1組ずつ入場するオープニング、両軍最多出場歌手同士ということで島倉千代子と貫禄の和服姿で登場。「全国の神様、白組をよろしく!」と猛アピール。

 前半の企画コーナー「紅白こいこい節」では、この年も村田英雄と共演。神主に扮して、来年の豊作をお祈りしています(もっとも1985年度は必ずしも豊作ではなかったらしいですが)。後半のショーコーナーでは提灯を持ちながら弘前ねぷたを先導、「進行責任者」のタスキがかけられていました。

第36回(1985年)「夫婦屋台」

ステージ

作詞:平山忠夫 作曲:むらさき幸
前歌手:郷ひろみ、研ナオコ
後歌手:松原のぶえ、鳥羽一郎
曲紹介:鈴木健二(白組司会)

 前年のコメントにもあった通り、この年はつくば万博の讃歌「限りなき夢」が話題になって紅白もスムーズに出場確定となりました。もっとも、開会式で「一万光年の愛」を歌った西城秀樹はこの年の落選で11年連続出場がストップ。選出にやや一貫性がありません。当然「限りなき夢」もしくはこの年発売の「筑波の鴉」を歌うべき所ですが、選曲されたのはなぜか2年前のシングル「オホーツク情話」B面収録の「夫婦屋台」。あまり話題にはのぼりませんが、よく考えると歴代の紅白歌合戦を振り返ってもかなりの謎選曲ではないかと思います。

 初出場の安全地帯C-C-Bのメンバーが先導、真っ先に登場した玉置浩二がマイクを渡します。この年の白組初出場は直後に歌う鳥羽一郎も含めて4組、本来はもう1組(ソロではありますが一応)一緒に出る所だったとは思われますが、おそらく当日のパフォーマンスが原因で取りやめになったと推測できます。

 ”♪夫婦屋台よ ねえあんた~”の女性コーラスが冒頭から耳に残りますが、正直申し上げますと楽曲はわざわざ三波先生が歌う必然性のない夫婦演歌でした。ある意味では貴重なステージとも言えますが…。セットも冒頭以外に目立った演出は無く、ひたすら聴かせる内容です。曲そのものは良いのですが、歴代の名だたる楽曲と比べても印象には残りにくいステージでした。

応援など

 この年のオープニング入場行進は研ナオコと登場。「ユニークなキャラクターの激突、研ナオコさんには三波春夫さんです」と総合司会の実況はやや無理のある内容です。

 各6組歌唱後、この年日本一でフィーバーを起こした阪神タイガースのユニフォーム姿で登場します。タイガースファンの出場歌手が登場してサインボールを投げる企画ですが、ランディ・バースの44番を着た三波先生は「来年は巨人ですよ、いいですか!」と見事に裏切るオチ担当でした。

 中盤の『めでたづくしの澪つくし』では、川野太郎扮する吉武惣吉役の世話役の1人として登場。黒い紋付き袴姿がビシッと決まっています。直後の「銚子大漁節」の歌唱は、三波先生の声が一番目立っていました。近藤真彦「ヨイショッ!」のステージでも、重さ5kgの纏を他のベテラン勢と一緒に持ち上げています。

第37回(1986年)「あゝ北前船」

ステージ

作詞:北村桃児 作曲:浜 圭介
前歌手:新沼謙治、小泉今日子
後歌手:斉藤由貴、吉 幾三

曲紹介:加山雄三(白組キャプテン)、千田正穂(白組司会)

 この年はなんと白組3番手、対戦相手も43歳年下の現役アイドル・小泉今日子という異例のカードです。当時NHK『ひるのプレゼント』関連曲を担当することが多く、「あゝ北前船」も当番組・北前船紀行編のテーマソングでした。2組続けてのステージなのでキョンキョンが歌う前に村田英雄が登場。キョンキョンを応援する松田聖子に対して熟年パワーをアピールします。歌う前の曲紹介は「さあ、白組の熟年軍団のトップを切って三波春夫さんがおおいに聴かせます。さあ、北前船…「あゝ北前船」です」、最初から仮面ライダーと大間違いした若大将はここでも危うい内容でした(なお当年の司会記事はこちらにて掲載済)。

 「江戸時代、上方と北海道を結び人々の暮らしの品を、文化を運んだ北前船。この夏100年ぶりに復活したのは記憶に新しい所であります」千田正穂アナウンサーの曲紹介も若大将の直後に入ります。この年紅白初登場のビジョンに映るのはもちろん北前船。浪曲ではありませんが作詞は北村桃児なので三波先生本人、スケールの大きいステージが久々に紅白で見られる形になりました。

応援など

 オープニングは小泉今日子と手を繋いで登場。この年の紫綬褒章受章がアナウンスされます。ちなみに紫綬褒章受章年の紅白出場は第24回(1973年)の渡辺はま子藤山一郎以来、特別出演を除くと第16回(1965年)の東海林太郎以来21年ぶり2人目の快挙でした。

 そんな凄い人ですが、「紅白サバイバルゲーム」では律儀にジャージ姿で参加しています。もっとも1人ずつジャンケンして狭い陣地に立つゲーム、順番はかなり後ろでジャンケンする場面は無しでした。

 後半のハーフタイムショーでは五木ひろし森進一小林旭村田英雄とともに勧進帳の弁慶に扮します。「それにつけても白組は、あら情けなや悔しなや、今まで(白組勝利が)たったの16回」と巻物を持って読み上げました。

第40回(1989年)「東京五輪音頭」

ステージ

作詞:宮田 隆 作曲:古賀政男
前歌手:松尾和子・和田弘とマヒナスターズ、千 昌夫
後歌手:藤山一郎、都はるみ
曲紹介:松平定知(総合司会)
踊り:花柳糸之社中

 29年連続出場を契機に、1987年は30回連続の島倉千代子と一緒に自ら出場辞退を表明します。第38回は出場歌手だけでなく演出も大きくリニューアル、彼ら以外でもベテラン勢の連続出場が多くストップした年でした。平成後半以降は事前に辞退を表明、もしくは最後の紅白出場をあらかじめアナウンスするケースも増えましたが、長年連続出場していた歌手がこうやって事前に発表したのは当時初めてでした。

 昭和から平成に改元して初めての紅白歌合戦は史上初の二部制、19時20分~20時55分まで放送された第1部「昭和の紅白」で3年ぶり紅白復帰となります。「東京五輪音頭」は第14回(1963年)エンディングで全員歌唱されましたが、紅白歌合戦出場歌手の歌唱曲として披露されたのは意外にもこれが初めて。

 番組は総合司会・松平定知アナの進行、対決とは関係のない内容で昭和を振り返る形となっています。東京オリンピック開会式のカラー映像が流れた後に、杉浦圭子アナが当時開会式で演奏した牛込仲之小学校鼓隊同窓生にインタビュー。その後会場に招待された金メダリストを一斉に紹介します。おそらく名前を読み上げる段取りもあったも想像できますが、それより前に設けられた歴代司会者スピーチで6分以上押したため、起立して拍手されてお辞儀するだけに留まっています。

 「さあここで、思い出も新たにお聴き頂きましょう。「東京五輪音頭」、三波春夫さんです!」。ピンクと黄緑の和服に頭巾をつけた衣装で桜の枝を持つ花柳糸之社中をバックに歌います。会場もちろん手拍子、2番と3番の間に奈落のオーケストラピットが映る珍しいカメラワークもあります。

 笑顔で歌い切るステージでした。同年の第1部に出演した春日八郎村田英雄が明らかに痩せた姿だったので(特に春日さんは2年後に逝去)、老いてもなおバリバリ健在という言葉が余計にしっくりくる形です。

 ちなみに「東京五輪音頭」は2020年開催決定後、第65回と第67回で福田こうへいによって、第66回では伍代夏子によってあらためて歌唱されています。特に第67回はワイプですが、福田さんが長女・三波美夕紀さんを訪ねた映像も挿入されていました。

第50回(1999年)「元禄名槍譜 俵星玄蕃」

ステージ

作詞:北村桃児 作曲:長津義司
前歌手:郷ひろみ、坂本冬美
後歌手:小林幸子、さだまさし

曲紹介:中村勘九郎(白組司会)、野猿

石橋貴明「さあ続いては白組は、歌謡界の大御所・木梨春夫先生です」
木梨憲武「木梨春夫でございます、お客様は」CXスタッフ「神様です」木梨「ありがとう~」
中村勘九郎「今のは見ないことにしてください。白組には10年ぶりにこの方が帰って参られました。同級生のお父さんであります。三波春夫さん、「元禄名槍譜 俵星玄蕃」、忠臣蔵の世界です!」

 歌唱前に赤穂浪士の姿に扮した野猿のメンバーが登場します。一応タカさんが大石内蔵助、ノリさんが堀部安兵衛という役割でタカさんは兜も装着していました。「俵星玄蕃」発表年は大河ドラマ『赤穂浪士』が大人気を博しましたが、この年の大河ドラマは同じく忠臣蔵をテーマにした『元禄繚乱』。勘九郎さんはその作品で主演・大石内蔵助役、曲紹介にも力が入ります。ちなみに同級生とは三波先生の息子・三波豊和のことを指していて、小学校から高校まで一緒の学校だったようです。

 マイクスタンドにハンドマイク装着、屏風のセットが三波先生の後ろに用意されています。登場するや否や早速槍を振り回すような動き、両手を動かしながらまずはオープニングにあたる1番を歌います。

 歌い終わってすぐテンポが速くなり、照明が暗くなって陣太鼓の音が鳴ります。”時に元禄十五年十二月十四日江戸の夜風を震わせて…”、浪曲のセリフが次々に読み上げられます。一息で発せられる言葉の数は非常に長く、一言一句はっきりとした言葉で臨場感も抜群、アクションは1960年代・1970年代の紅白ステージと比べても非常に大きく。このステージに尋常ならざる想いで挑んでいるのが、画面からも溢れるほどに伝わってきます。

 やがて照明が青空のように明るくなり、”♪吉良の~”から新たなパートに入ります。昭和の紅白歌合戦で何度か浪曲歌謡を歌っていますが持ち時間は長くても3分台、演出上どうしてもカットせざるを得ないという事情がありました。この年の紅白出場のきっかけは、同番組プロデューサーが担当した『ふたりのビッグショー』がきっかけと言われています。本人の「紅白にもう一度出たい」というコメントを汲んだ上で、紅白で最高のステージを作り上げるという気概が非常に表れた演出です。

 当時76歳、さらに公式には明かされていなかったですがこの時既に病が進行していた状況でした。10年前と比べても体は明らかに痩せています。ところがステージでの歌声はそんなことを全く思わせない声量と迫力。”先生!おうッ、そば屋か”、この瞬間に斜め上手側から撮られた表情は明らかに全盛期のまま、顔も当時と同じ若さで、少しふっくらしたような姿に見えます。

 やがてこのパートも終わりを迎え、ラストの1コーラスに入ります。”打てや響けや 山鹿の太鼓”、明らかに元々のメロディーとずれたリズムです。もうここまで来ると歌はメロディーに乗せて歌うものではなく、「歌で語るもの」という領域に突入しています。76年間の人生・芸能生活60年を去来しているような笑顔で歌う姿は、もはや菩薩のように見えました。

 5分54秒にわたる大熱唱、歌い終わって大きな一息。平成の紅白歌合戦史上に間違いなく永遠に残る、伝説のステージです。後年の美輪明宏「ヨイトマケの唄」「愛の讃歌」も神がかり的でしたが、このステージはまさに歌の神が三波先生に舞い降りた、いや長年の功績が自ら神を呼び込んだ内容だったのかもしれません。

応援など

 先述の通り、三波先生の体調はこの時期になると決して万全ではありませんでした。ですが自身のステージだけでなく、それ以外の出番でも出来る限りの元気な姿を見せています。

 冒頭はオープニングだけでなく、モーニング娘。DA PUMPといった若者のステージにも精一杯リズムを取ってノッています。若干ステージに入っているような立ち位置、SMAP野猿(とんねるず)のメンバーと一緒に応援したり振付を教えてもらったりする光景もありました。

 この当時はギャラリーのように出場歌手が舞台袖に集まることも多かったですが、先述の事情もあるので当然そういった場面はありません。前半トリの前川清紹介時にスーツ姿で出てくるくらいでした。ちなみに直後「A Song for Children ~21世紀の君たちへ~」全員合唱あり、三波先生はそちらにも参加しています。

 後半、ステージでの歌唱後は再びオープニングの和服に着替えて北島三郎「まつり」のステージとエンディングに参加。さらにこの年のみ行われた本番後のカウントダウンイベントにも参加します。

 イベントでは前半ラストにもあった全員合唱の他に、年明けには何人かの出場歌手による年始の挨拶もありました。最後はこの時の挨拶を掲載します。それは生涯日本を愛し、日本のために力を尽くした三波先生の魂が込められた言葉です。

「どうもみなさま、ありがとうございました。
 西暦2000年というんで、あの日本の歴史は、どのくらいだかお分かりですよね。2660年なんです。はい。
 で、西暦元年と言うのはみなさま、キリストが生まれた年だとお思いでございましょう?僕もそう思ってたんですけどね、実は、キリストが4歳のときから、西暦元年が始まったんですね。
 ですから、これからも大いにまた、洋の東西を問わず、大いに勉強して、日本人がもっともっと力強い、本当の独立国の日本人になって欲しい、そんなふうに私は思っております。
 おかげさまで芸能生活60年ですが、戦争も行きました。シベリアの捕虜にもなりました。
 で、日本と言う国を、本当に僕は愛してると、そういうつもりですが、
 皆さんも一緒に、日本と言う国の為に、ひとつ、頑張ってください、よろしくお願いします。」

おわりに

 2001年4月14日に77歳で逝去、第50回が生涯最後の紅白歌合戦になりました。長編歌謡浪曲の時代、花柳社中の時代など色々ありますが、意外と音頭を歌っていなかったりする点は知らない人から見ると驚きはあるかもしれません。長年の連続出場でしたが、振り返ると案外1980年代は出場してもやや不遇な感もあり、ただそれだけに第50回のステージがより際立った印象もあります。

 浪曲歌謡は島津亜矢三山ひろしもカバーしていますが、やはり振り返ると後にも先にも三波先生のような歌手は今後も現れないのではないかと思います。それだけ唯一無二の存在でした。紅白ではあまり見られなかったですがジャンルレスな活動も印象的、間違いなく永遠に語られる存在です。2016年にはハルオロイド・ミナミというバーチャルアーティストまで登場。来年生誕100年を迎えますが、その偉業はますます語り継がれることになりそうです。

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