1984年の紅白歌合戦は昭和の中でも特に反響が大きい内容で、関東地区では視聴率78.1%を叩き出しました。その最大要因は何と言っても、紅白のステージで引退する都はるみさんのステージ。大トリで「夫婦坂」を歌った際の瞬間最高視聴率は、なんと84.4%という高さでした。現在では考えられないどころか昭和の時代でも異例の高さで、1972年に80.6%を叩き出した時以来12年ぶりの数字。そんな中でミスすると、反響がとんでもなく大きくなります。というわけで今回は、年が明けてから週刊誌で大きく取り上げられたミソラ発言について書いていきます。

・総合司会の生方恵一アナウンサーとは?

 生方アナについて書くと、彼は1956年NHK入局の看板アナウンサー。2年前まで白組司会を務めていた山川静夫アナと同期で、この年の白組司会・鈴木健二アナは4年先輩にあたります。1981年度から現在のうたコンの前身・『NHK歌謡ホール』の司会を担当。したがってNHKの歌番組ではお馴染みの存在でした。

 紅白に携わるようになったのは1979年の得点集計センター担当から(当時は無作為で抽出された400人が電話審査で参加していて、中間集計と最終集計でオペレーターに電話が繋がる形でした)。1981年から総合司会担当、タモリさんに譲った1983年も最後の得点集計の進行で登場していました。

 担当番組でどうだったかは分からないですが紅白の総合司会としては若干ミスが多く、1981年の審査員紹介では西武ライオンズ所属の石毛宏典選手を西鉄ライオンズと紹介したり、一般審査員の名前を間違える場面もありました。あくまで個人の感想ではありますが、審査員に話を振り終わる際のなにげない言葉がやや上からの印象もあったりします。ですので常に明るく笑顔を振りまく相川浩アナや、何事もソツなくこなした中江陽三アナと比べると、少し腕が落ちるという感もありました。とは言えそれで進行が滞るようなことは一切なく、数多いるNHKのアナウンサーでも最上位ランクの実力の持ち主であったことは間違いありません。

・事の経緯

 紅白歌合戦ファンでなくても、当時を生きていた人々ならばおそらく強い記憶に残っているだろう都はるみラストステージ。この辺はWikipediaでも相当詳しく書かれているのでざっくり書くと…

  1. 都はるみさんが「夫婦坂」を歌い終わる
  2. 観客席からアンコールの手拍子が巻き起こる
  3. 白組司会の鈴木健二が一旦ステージ中央に立って演説
  4. 「私に一分間時間をください」、はるみさんを説得
  5. 説得が終わらないうちに「好きになった人」イントロが演奏され始める
  6. 紅白史上唯一のアンコール終了、会場興奮のるつぼ
  7. 生方アナが得点集計に入ろうとする直前、一旦場を締めようとする所で例の発言が起こる

 ざっとこういった流れです。ステージは勿論おそらくお茶の前でも興奮のるつぼだったはずで、案外リアルタイムでは気づかなかった人も多かったようにも思えます。なお生方アナと美空ひばりさんは親交のある関係だそうで、ひばり嬢は自宅のテレビでその瞬間を見てビックリしたとか。当然笑うことはあっても怒ることは一切なかったわけですが、問題は本番が終わって年が明けてから。

・過熱する報道

 一部では「当時の紅白は寸分のミスも許されなかった」と書かれています。ですが先ほども挙げた通り、そこそこのミスはそれ以前にもいくつかあって、その度に話題に挙がっていたかと言われると全くそんなことはありません。ただ例年の紅白以上に注目される場であったことと、当時写真週刊誌が多くなり芸能関係の記事が過激化し始めていたことが、事を大きくさせる要因になったように思います。

 1981年にFOCUSが創刊して急速に発行部数を伸ばします。そして1984年はFRIDAYが創刊。スクープを得るために、取材がどんどん過激化していく時期に入ります。また紅白にワイドショーの波が押し寄せたのもこの時期の大きな特徴で、熱愛が報じられた中森明菜&近藤真彦、松田聖子&郷ひろみのカップル演出が大々的に取り上げられたのも同じ1984年。それだけ当時は、ワイドショー的な芸能需要が多かった時期でした。

 そんな中で、一番注目される場でミスしてしまった生方アナは格好の標的となります。また、その年に大阪放送局への異動が報じられたのも事を大きくする原因となりました。内示自体は本人曰くその年の紅白以前からあったとの談ですが、実際のところは分かりません。異動がアナウンサーではなく栄転だったことを理由に、生方アナはその年限りで退局。フリーアナウンサーに転身して活躍後、2014年12月に逝去されました。

・個人的な考察

 今年のNHKでも、番組内の発言が原因で降板・異動になったのではないかという噂があります。本当にそれが理由なのか、もしくはそれ以前から話があったのかは内部の人間ではないので分かりません。もっとも大阪は東京の次の基幹局なので、それを持って左遷というのは若干腑に落ちない部分があるのですが…。

 総合司会の経験者が地方に転勤することは昭和に関して言うと分かりませんが、平成以降では多々発生しています。ですのでこれ自体異例なこととはあまり思えません。ただ異動は別として、生方アナが退局した原因にこの騒動があったのは間違いなさそうです。”騒動の責任を取って”と表立って話しているかどうかは不明ですが、ミスがなければ騒ぎが起こらなかったのもまた事実でありまして…。その場の雰囲気が異常だったこともありますが、3年前にも一応やらかしてはいるので、予兆が全くなかったかと言われるとそうとは言えない部分もあります。

 生方アナ以前の総合司会の継続年数は、1960年代の石井鐘三郎アナを例外とするならば4年連続が最長。それを考えると、仮にミスが無くても1985年の総合司会は交代する可能性は高かったように思います。

 ただいくら重大な場面だったとは言え、たった1つの失言が人生を大きく変えるというのも恐ろしい話です。しかも最近槍玉に挙がる差別発言ならまだしも、これは単なる言い間違いです。当時SNSが発達していたら、逆に同情の声が多く挙がっていたようにも思います。それだけ当時はマスコミ、いや週刊誌やワイドショーが作る世論が大きかったわけですね。今も週刊誌の方向性は大筋だと変化ありませんが、その分世論は誘導されるよりも反発の方が大きくなりつつあります。そういう意味では、40年くらい前と比べると少しは多様かつ寛容な社会になっていると言っていいのかもしれません。