第14回(1963年)NHK紅白歌合戦~その1~

※本記事はブログ「紅白歌合戦のお話。」で2020年8月~9月に更新したシリーズの再編集です。ご了承ください。

 歌手名表記ですが、本放送のテロップで表記がなかったのと作詞作曲が分からない楽曲も存在する関係で、例年のレビューで書いている作詞作曲者名は省いてます。また当時はレコード会社が紅白の人選に及ぼす力が強かったということで、それぞれ所属していたレコード会社も書いてみました。

 この時代全く分からないという読者も多々いらっしゃると思いますので、オープニングからそれぞれ解説も追加しました。これで多少は分かりやすくなるのではないかと思います。

 また、曲も知らない人が多数いらっしゃるかと思いますので、Spotifyで聴ける楽曲に関してはそのリンクも載せています。なお個人的に紅白歌合戦歌唱曲(昭和)と題してプレイリストも作成してますので、興味があればこちらもご覧ください。

 曲のタイトルはテロップに準拠する形にしました。後世の資料と見比べると漢字が違っている部分もありますが、当時はこう表記されていたということでご了承ください。

オープニング

灰色→テレビ実況・担当土門正夫アナ紫色→会場進行・担当石井鐘三郎アナ。[1]→下に解説あり)

東京宝塚劇場 [1]の外から中継

-昭和38年も間もなく終わろうとする大晦日。今晩もまた、美しいイルミネーションがここ東京・有楽町の大通りを彩っております。

 その大通りを、白バイに先導されまして、遥か彼方見えてまいりましたランナーは…渥美清さん [2]でございます。寒風をついて、颯爽たる渥美清さん。その高く掲げ持ちましたトーチが東京宝塚劇場に到着すると、お待ちかね、第14回NHK紅白歌合戦が華やかにその幕を開くのであります。その時が刻一刻と近づいております。
(ファンファーレが鳴る)

東京宝塚劇場から中継

「NHK紅白歌合戦、只今から開会式を行います。」

入場行進 [3]

 高らかに鳴るクラッカー、いよいよ第14回NHK紅白歌合戦の入場が開始されます。客席後方のドアを拝しまして、まず白組の入場であります。一方、その客席後方左側のドアからは、彩りも鮮やかな、まことに本当に鮮やかな紅組の入場。その白組の先頭には、昨年優勝いたしました大優勝旗、その優勝を象徴する大優勝旗を宮田輝アナウンサーが掲げ持っております。

 おなじみの顔がズラリと並んでおります。白組は胸に白い花、そして紅組は胸に赤いバラをそれぞれつけております。
 舞台中央には早くも入場致しました審査員団が並んでおります。

 既に戦うこと13回。過去白組の7勝、紅組の6勝となっておりまして、わずかに白組男性軍が一勝リードしております。今年迎える第14回、白組の4連勝なるか、紅組久しぶりの勝ちとなるか。その入場式であります。

優勝旗返還 [4]

「これより前年度の勝者、白組から春日大会委員長 [5]へ優勝旗の返還です。」

 お聴きのメロディー「勇者は帰りぬ」、紫の地に金糸で優勝、NHK紅白歌合戦と読み上げました大優勝旗、宮田輝リーダーから春日大会委員長に返還されました。

審査委員紹介

「ではここで、本日の審査委員をご紹介いたします。」

「審査委員長・NHK長沢芸能局長。 [6]
 審査委員、まず政治評論家で小唄がご趣味の細川隆元さん。 [7]
 ゴルフのハンディが8というスポーツマン、作家の丹羽文雄さん。 [8]
 舞台一筋、歌舞伎の実川延若さん。 [9]
 パリーグ優勝、西鉄ライオンズ逆転監督、その名も中西太さん。 [10]
 相撲界きっての技能派、大関栃ノ海照嘉さん。 [11]
 映画生活40年、紫綬褒章の飯田蝶子さん。 [12]
 東京オリンピック女子選手村責任者、貞閑晴さん。
 アジア映画祭助演女優賞の新珠三千代さん。 [13]
 日本舞踊、花柳流家元・花柳壽輔さん。 [14]
 最近特にめざましい活躍ぶりの佐久間良子さん。 [15]
 それに視聴者代表として細田芙美子さん、菊地弘毅さん。 [16]
 この13人の方々が会場での審査員です。

 なお後ほどご紹介いたしますが、今年はこの他に全国の7つの地区に14人の審査員においで頂きまして、合計27人で審査にあたって頂きます。
 本日の先攻は既に抽選によりまして紅組女性軍と決定しておりますが [17]、いつものように戦い半ばで攻守交代することになっております。」

聖火台点火

(ファンファーレ)
-高らかに鳴るファンファーレとともに、超満員の客席を縫いまして、先ほどこの宝塚劇場玄関に到着いたしました渥美清さん。颯爽と登場であります。白い鉢巻、白いシャツ、そして白いトレーニングシャツ、白い運動靴。まさに清潔そのもの、白一色であります。

 舞台中央に備えられました聖火台の前に立ちました。

 いよいよ、点火(笑)。ジャンプの点火であります。その時舞台上五輪のマークに赤々と灯がともりました。 [18]

選手宣誓 [19]

「では、選手代表宣誓。」

宣誓
我々はアーティスト精神にのっとり、
正々堂々、敵をノックアウトするまで戦うことを誓います
昭和三十八年十二月三十一日
紅白歌合戦出場選手代表
宮田輝

開会宣言 [20]

「続きまして、春日大会委員長の開会宣言です。」
「1963年度のNHK紅白歌合戦の開会を宣します。」

開会式終了、それぞれの持ち場へ [21]

-滞りなく終了致しました第14回NHK紅白歌合戦の入場式。東京放送合唱団が歌い上げます「錨を上げて」。この歌声とともに、「いざ戦わんかな。いざ喉を競わんかな」の機も十分に熟しました。宮田輝さんの宣誓にもございましたように、敵をノックアウトして紅白両チームとも早くから十分な施策を練りに練ったと聞いております。果たして何が出るか、何が飛び出すか。この晴れの舞台は中央に聖火台、その後ろに五輪のマークが美しく光っております。

オープニング・各項目の解説

[1]…当時NHKホールは建設されておらず、毎年大晦日に会場を借りて紅白歌合戦を開催。公開放送になった第4回以降日本劇場、新宿コマ劇場など様々な会場が使われていましたが、第12回以降は第23回まで東京宝塚劇場での開催が定着。

[2]…後に『男はつらいよ』でお馴染みとなる渥美清は、当時NHKの人気番組『夢であいましょう』レギュラーのコメディアン。第12回から第17回まで6年連続出演、これは『夢であいましょう』放送時期とほぼ重なります。その後第19回でも応援ゲストとして出演。

[3]…近年でも時々行われているオープニングの歌手入場は、当時の紅白だと恒例の演出。客席後方からの登場がメイン、ただ第17回(1966年)などステージ後方から登場する例もあり。

[4]…昭和の紅白では必ずあった演出。平成元年を最後に廃止されたとともに、1990年代にたびたび行われたBSでの再放送ではカットされることも多数。

[5]…春日由三NHK専務理事(当時)。第1回紅白の時点で審査員、その後も(おそらく)毎年当時の紅白に深く関係。

[6]…長沢泰治芸能局長(当時)。第12回から第15回まで審査委員長。この審査委員長をNHK職員が務める体制は第55回まで続行。

[7]…当時TBSの報道番組『時事放談』でお馴染み。バリバリの保守派、特に後年ビートルズ来日の際は大批判を展開。

[8]…日本文藝家協会会長、後に文化勲章も受賞。実際、文壇界にゴルフを広めた人でもあるようです。

[9]…實川延二郎から、この年3代目を襲名。上方歌舞伎の俳優。

[10]…この年西鉄ライオンズを、14.5ゲーム差からの大逆転パリーグ優勝に導きます。また選手兼任監督でリーグ優勝は、2020年現在でもこれが唯一。

[11]…この年九州場所で優勝、直後の1月初場所も好成績ですぐに第49代横綱に昇進。

[12]…この年紫綬褒章受章、戦前戦後にかけて多くの名作映画に出演。

[13]…東宝所属。当時はテレビドラマ未出演で映画のみ。

[14]…この年1月に3代目花柳壽輔を襲名。

[15]…東映所属。この年の主演映画『五番町夕霧楼』がキネマ旬報3位。

[16]…視聴者代表2名がこの形で紹介されるのはこの回まで。第15回以降は地方含めて16人が会場に招待されています。

[17]…本当に抽選で決められていたのかどうかは、正直申し上げると不明。

[18]…聖火台点火の演出は、前年にもフランキー堺によって行われていました。

[19]…この当時の選手宣誓は1人のみ。前年は紅組司会・森光子が担当。

[20]…大会委員長の開会宣言は、第19回の時点でもう無くなっていた演出です。

[21]…後年の紅白では、この時間帯にスクールメイツのダンスが恒例となります。

弘田三枝子(2年連続2回目/第13回/東芝/16)「悲しきハート」

 先攻の紅組、まずは着物姿の司会・江利チエミが挨拶します。

「会場の皆さま、全国のテレビをご覧の皆さまこんばんは。今晩紅組の司会をやらせてもらいます江利チエミでございます。もう生まれて初めてのことなんで絶対にミスすること間違いなしなんですけど、ともかく私の全身の力を振り絞ってやりますから皆さんどうぞよろしくご声援ください。」
「パンチの効いたミコちゃんちょっと出てきて!」「ミコちゃん、「悲しきハート」でもってバンバンとハッスルして」「バンバン!、とね!」

 前回第13回で当時紅組史上最年少の15歳で初出場。この年堂々のトップバッター、とだけ書くとよくある文面。ですが実際ステージに立つと半端ない声量。16歳にしてこの歌唱力、歌手として完全に仕上がっていると書くと失礼かもしれないですが、”堂々の”という文面がこれだけ似合う歌手もいないのではないかと思います。洋楽ポップスメインの女性歌手は今回の紅白でも多数いますが、もしかすると一番上手いのは彼女なのかもしれません。特にコブシの使い方は、他の歌手には出せない味ではないかと思います。彼女くらいの歌唱力だと別のジャンル、例えば日本調の歌謡曲を歌わせてもおおいにヒットを飛ばすこと間違いなさそうです。(2分2秒)

 

(解説)
・「悲しきハート」の原曲はスーザン・シンガー「Lock Your Heart Away」。カバーは弘田さんの他に、伊藤アイコ盤もありました。

・彼女はこの後も洋楽カバー中心に歌いますが、昭和40年代以降は歌謡曲路線に転向。1969年の「人形の家」は、これまでの楽曲と全く違う曲調に関わらず大ヒット。

・2020年7月に逝去されてからも歌謡曲・ジャズファンからの人気・評価は高く、実際後世のポップス歌手にも大きな影響を与えました。反面その割に、「人形の家」を除くと数字的なヒットに恵まれなかった印象もあります。

田辺靖雄(初出場/第14回/キング/18)「雲にきいておくれよ」

 2年連続白組司会となる宮田輝アナがまず一言挨拶。「白組のことは一つ、任せて頂きたいと思います。」

 これに続いて白組の演奏を担当する面々を紹介。今回もNHKオールスターズ(指揮:奥田宗宏)東京放送管弦楽団(指揮:藤山一郎)が担当するようです。そのまま初出場・ヤッチンこと田辺靖雄を紹介。

 『夢であいましょう』でお馴染みのヤッチン。やはり爽やかです。楽曲は正直申し上げるとあまり聴いた記憶のない曲ですが、明るくて良い曲。来年以降の活躍も楽しみになるステージでした。(2分7秒)

 

(解説)
・この「雲に聞いておくれよ」はいくら探してもデータが見つかりません。1999年にNHKから発行された『紅白50年』という雑誌に歌唱曲データが付録で載っていて、そこには外国曲も含めて作詞作曲者も明記されていますが、この曲に関しては空白でした。

・当時のヒット曲の宝庫『夢であいましょう』今月のうたには、レコード化されていない楽曲も中には存在しますが、それにも入っていない模様。雑誌でも紅白に選ばれたのが意外だったと自ら話しています。

・田辺さん自身は次の年、吉田正作品の「二人の星を探そうよ」をヒットさせて2年連続出場。ただその後は1979年に「よせばいいのに」のヒットもありましたが、紅白に縁がない形です。

仲宗根美樹(2年連続2回目/第13回/キング/19)「奄美恋しや」

 江利さんは、曲紹介が終わるや否や自ら指笛を鳴らします。奄美の民族衣装を身にまとった彼女、頭にはハイビスカスの大きな飾りがつけられています。

 バックで踊る4人も南国情緒たっぷり。前年初出場は大ヒットした「川は流れる」、その時のステージは見ていないので断言は出来ないですが、おそらく2回目となる今回の方が本来の彼女らしい内容だったのではないでしょうか。(1分52秒)

 

(解説)
・仲宗根さんは東京出身、ただ両親は沖縄。そう考えると南西諸島の奄美大島を舞台にした楽曲を彼女が歌うのは必然でした。

・沖縄は1972年返還まで米国領、ただ奄美は1953年に日本返還なってこの年で10年。1962年~1963年にかけて南国ブームと称してこの辺りの楽曲ヒットが連発、そこにはこういう背景があったのかもしれません。ただ指笛はもうこの時点で日本には定着していたのでしょうか…。

・紅白出場は計5回、ただこれ以降の3回は楽曲タイトル以外データ他がまるでありません。詳しい情報が欲しいところです。

守屋 浩(4年連続4回目/第11回/コロムビア/25)「蟇の油売り」

 「奄美恋しや」の歌唱を受けて、南国ブームなどの話をする中で突如登場した一体の大きなガマガエル。左手が紐に繋がれていますが、その先にはガマの油を扱う油売り姿の守屋浩。かなり濃い付け髭をつけてます。

 後ろにいる、人間の大きさほぼそのままのガマガエルは左右に動いて落ち着きなくツイストを踊ったりしてます。歌唱後は白組ではなく、紅組の方に去っていきました。前年の「大学かぞえうた」もそうですが、一度見たら一度聴いたら忘れられないステージと歌が守屋浩の大きな魅力。(2分5秒)

 

(解説)
・ガマガエルはなんだか初代ウルトラマンの怪獣にいそうな不気味さでした。ちなみにウルトラマンが放送開始したのは1966年、当時の特撮は前年に『キングコング対ゴジラ』が上映されたという段階です。1963年といえば、アニメ『鉄腕アトム』が初めて放送された年でもありました。

・楽曲の舞台は筑波山の蟇の油売り。既に「僕は泣いちっち」などで守屋さんに多く楽曲提供していた浜口庫之助の提供。筑波山のガマガエルを舞台にした楽曲は、後にデューク・エイセス「筑波山麓合唱団」が紅白で2度歌ってます。

・守屋さんはこの年島倉千代子とのデュエット「星空に両手を」を大ヒットさせていますが、紅白では未歌唱。また紅白出場もこの年が最後になりました。ホリプロ所属第一号タレントとして長らく健在でしたが、2020年9月19日に逝去されています。

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