紅白歌合戦・南沙織の軌跡

 紅白歌合戦の歴代ステージを振り返るシリーズ、今回は南沙織について書きます。

 1970年代~1980年代のアイドルについてはこれまでも多く書いてきましたが、彼女に関してはまだでした。今年で沖縄本土復帰50周年になりますが彼女のデビューは1971年、つまり言うと沖縄が米国政権下だった頃から歌手活動していたという形になります(デビュー当時は奄美大島生まれというプロフィールでした)。

 小柳ルミ子天地真理とともに「アイドル」という単語が広く使われるようになったきっかけとなった存在ですが、ドラマ・映画出演が比較的少ない「アーティスト」的な側面を持つ歌手でもありました。そんな南さん、通称シンシアと呼ばれた彼女の紅白歌合戦を振り返ります。

 なお紅白歌合戦の歌唱映像は、2006年に発売された21枚組CDボックス『Cynthia Premium』の特典DVDに全8回収録されています。

南沙織の紅白データ~8回分のまとめ

出場回
年齢
歌唱曲作詞者
作曲者
発売日曲順主なデータ主な受賞他の発売曲
第22回
(1971年)
17歳
17才有馬三恵子
筒美京平
1971/6/1紅組トップバッター1971年オリコン年間11位・日本レコード大賞新人賞
・その他新人賞多数
・潮風のメロディ
第23回
(1972年)
18歳
純潔有馬三恵子
筒美京平
1972/6/1紅組10番手/23組中1972年オリコン年間28位・ともだち
・哀愁のページ
第24回
(1973年)
20歳
色づく街有馬三恵子
筒美京平
1973/8/21紅組4番手/22組中1973年オリコン年間37位・早春の港
・傷つく世代
・ひとかけらの純情
第25回
(1974年)
21歳
夏の感情有馬三恵子
筒美京平
1974/6/21紅組8番手/25組中オリコン週間最高16位・バラのかげり
・夜霧の街
・女性
第26回
(1975年)
22歳
人恋しくて中里 綴
田山雅充
1975/8/1紅組2番手/24組中1975年オリコン年間52位・日本レコード大賞歌唱賞・想い出通り
・ひとねむり
第27回
(1976年)
23歳
哀しい妖精松本 隆
ジャニス・イアン
1976/9/1紅組4番手/24組中オリコン週間最高20位・気がむけば電話して
・青春に恥じないように
第28回
(1977年)
24歳
街角のラブソングつのだひろ
つのだひろ
1977/7/21紅組10番手/24組中オリコン週間最高36位・ゆれる午後
・木枯しの精
第42回
(1991年)
38歳
色づく街有馬三恵子
筒美京平
(2回目)紅組後半5番手/18組中

第22回(1971年)「17才」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:筒美京平
前歌手:(オープニング)、尾崎紀世彦
後歌手:にしきのあきら、ピンキーとキラーズ

曲紹介:水前寺清子(紅組司会)

 「さて、紅組のトップバッターも初出場の方でございます。ティーンのアイドル、もうお分かりですね南沙織さん、沖縄代表どうぞ「17才」!」

 本来のイントロの前に、「潮風のメロディ」らしきコード進行の演奏が挿入されます。階段を降りて舞台に向かうシンシア、降り切る直前で歌い出しが入ります。サビを歌っている最中に定位置に到着、歌手名テロップもこのタイミングで入りました。歩いているうちに音が聴こえづらくなったのでしょうか(当然この時代にイヤモニは存在しません)、歌うリズムが一瞬演奏より遅れる場面もあります。このステージに限らず、第22回紅白の演奏は全体的に走り気味な傾向もありましたが…。

 「17才」は平成に入ってすぐに森高千里のユーロビート風カバーが大ヒットしました。その後も取り上げられる機会は非常に多く、歌謡曲の教科書における必須曲となっています。再度紅白の正式なステージで歌われる機会は訪れていませんが、第56回(2005年)のショーコーナー「昭和・平成ALWAYS」で昭和の名曲の1つとして選曲。島谷ひとみ水森かおりが歌い出しを歌唱しています。

 全編のチェックがこの年の紅白に関しては出来ないので、応援の項目は省略になることをご了承ください。

第23回(1972年)「純潔」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:筒美京平
前歌手:いしだあゆみ、青い三角定規
後歌手:野口五郎、ザ・ピーナッツ
曲紹介:佐良直美(紅組司会)
踊り:キャンディーズ

 「今年も色々なことがありましたが、明るい話題としてはパンダちゃんがやって来たこと、そして沖縄が沖縄県になったこと。そのことを何よりも喜んでる人が紅組の中にいます。南沙織さん「純潔」」。5月15日の沖縄本土復帰は大きなニュースになりましたが、シンシア本人は実際のところ父の仕事の関係で本土復帰について複雑な感情もあったようです。

 このステージは背景や内容など書くべきことが非常に多く、既に紅白名言集解説・47~1972年の世相をよく表したステージ~として記事化しています。ステージの概略だけ書くと、当時スクールメイツ内ユニットだったキャンディーズの3人がパンダの着ぐるみと一緒にダンス、着ぐるみの中に入っていたのが小柳ルミ子天地真理谷啓という内容でした。パンダもこの年成立した日中共同声明における重要なトピック、これだけ世相を紅白のステージに落とし込んだ例も滅多にありません。

応援など

 あいうえお順の入場行進は美空ひばり都はるみの間、大物2人に挟まれています。直接応援のコールがあったのでしょうか、席に座るお客さんに会釈するシーンが映っています。

 出場歌手の応援席はこの年舞台の端なのであまり映っていないですが、初出場の天地真理が「ひとりじゃないの」を歌う場面は何度か応援するショットが挟まれます。シンシアに関しては同様にアイドルと呼ばれる関係性もあって、アップで「真理ちゃーん!」と応援する場面も映りました。

 サラサラの長い髪がトレードマークですが、自身のステージで歌唱後は花柄のカチューシャを頭につけて出演しています。平田隆夫とセルスターズの応援、エンディングの「蛍の光」でその姿は確認できます。

第24回(1973年)「色づく街」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:筒美京平
前歌手:森 昌子、野口五郎
後歌手:堺 正章、朱里エイコ
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)

 「色づく街」の相手は「街の灯り」、奇しくも4番手は「街」のつくヒット曲対決になりました。

 「沖縄県の皆さん、とまあ昨年はこんな風に親しく呼べませんでしたけれどもお元気でらっしゃいますか。とにかく本土の冬はとっても寒いんですよ。ひとつ皆様の温かいご声援をこの方に贈ってあげてください。沖縄県出身・南沙織ちゃん。「色づく街」」

 歌手席から登場、「フレーフレー南!」と応援団長の和田アキ子が大声で声援。ステージ真ん中からやや紅組サイド寄り、左右のステップを踏んだり左手を動かしたりするなど軽い振付がついています。

 彼女の楽曲の中でも人気が高く、秋の季節にピッタリの名曲ですが、ステージでの扱いは良くありません。ややテンポアップの上に、当時の紅白では珍しい1コーラスのみの構成。イントロまでもカットされる状況、演奏時間1分40秒は歴代の紅白歌合戦でもトップクラスの短さです。

応援など

 この年は応援などで特筆すべき場面はありませんが、歌以外は黒スーツに赤い蝶ネクタイという紅組歌手としては珍しい衣装でした。「蛍の光」では、端の方で天地真理と一緒にアップで映るショットがあります。

第25回(1974年)「夏の感情」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:筒美京平
前歌手:梓みちよ、野口五郎
後歌手:菅原洋一、森 昌子
曲紹介:佐良直美(紅組司会)

 野口五郎「甘い生活」から間を空けずに始まるステージ、中央からダンサー5名・紅組側からシンシアが登場します。曲紹介はイントロに乗せて「輝く太陽・青い海・褐色の肌・風になびく黒髪・みなぎる若さ。「夏の感情」、我らのシンシア・南沙織さん!」、大変テンポの良い内容でした。

 衣装はピンクで統一、花をあしらった麦わら帽子が大きなアクセントになっていて、大晦日でありながら出来る限りの夏らしさを演出しています。「お気づきの方もおいででしょう、大学生・沙織ちゃんの髪がウェーブがかかりました」と間奏で実況が入ったように、ルックスも瑞々しさを保ったまま大きくイメージチェンジしています。白いハイヒールもバッチリ似合っています。

 ダンサーは間奏でさらに追加、最終的には11人になりました。原曲2分43秒でステージはテンポ速めながらも2分20秒、2コーラスに最後のパートもしっかり含んだフルコーラスは前年より大きく改善されています。

応援など

 オープニングは紺色に星の柄が無数に入る衣装で登場、ただこれは入場行進で一瞬映るのみです。紅組2番手のアグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」で早くも応援に登場、テニスルックで一緒に踊ります。なおアグネスとシンシアは、当時同じ上智大学に通う学生同士でもありました。

 番組中盤では振袖姿が見られます。前半ラストのステージを前に緋寒桜(寒緋桜)が沖縄から届きますが、フライトアテンダントにマイクを向けたのは司会の佐良さんとシンシアでした。中間審査の時に客席へ餅を配った後、他の紅組歌手は一斉に着替えに入りますが、彼女は歌手席に残ります。森山良子青江三奈と一緒に3人しか座っていないシーンがカメラに捉えられていました。ちなみに振袖姿も珍しいですが、衣装に合わせて髪をまとめているのも非常に珍しいシーンです。

 後半始まってから約30分、ラインダンスから天地真理のステージ辺りまでずっと振袖姿のまま歌手席から応援。たださすがに終盤は黄色いワンピース風ドレスに着替えています。

 ちなみに紅白とは未関係ですが、吉田拓郎とかまやつひろしがデュエットして「シンシア」という楽曲を発表したのは1974年7月のことでした。11月に『ミュージックフェア』で3人が共演、この映像は現在も時折フジテレビの番組で見ることが出来ます。

第26回(1975年)「人恋しくて」

ステージ

作詞:中里 綴 作曲:田山雅充
前歌手:岩崎宏美、郷ひろみ
後歌手:堺 正章、藤 圭子
曲紹介:佐良直美(紅組司会)

 「白組男性軍から大変綺麗なお花を頂きましたので、紅組女性軍はさらに美しいお花をお返し致します。南国の情熱を内に秘めた可憐な花、南沙織さん「人恋しくて」」

 イントロ無しですぐ歌い出しに入るステージ構成、そのため佐良さんの曲紹介は本人がいる真横で行われる珍しい光景となりました。そのままマイクを持って歌い出しサビ歌唱、間奏から1番Aメロの間に歩いて紅組側の歌唱位置に移動します。1番を歌いきった後はさらに中央へ移動、結果歌い出しサビ+1コーラス半という構成でした。衣装は清楚な薄桃色のワンピース、これまでの4回とはまた異なる聴かせるステージです。

 なおシングル表題曲で有馬三恵子・筒美京平コンビを離れたのは、「カリフォルニアの青い空」カバーを除くとこの曲が初めてでした。作詞の中里綴は西野バレエ団の一員として第19回(1968年)にダンス応援で出演、作曲の田山雅充は翌年自身が歌う「春うらら」をヒットさせています。

応援など

 「人恋しくて」の歌唱が終わってしばらく後、紅組応援団長の海原千里・万里と白組応援団長の三波伸介がステージ準備の繋ぎでやり取りを展開。その中で海原千里、後の上沼恵美子が先ほど歌ったシンシアのモノマネを披露しています。声色・歌い方ともにかなり完成度高く、客席からは拍手も起こります。なお当時の上沼さんは20歳ですが、この時点で45歳の大先輩・三波さん相手でも全く臆する様子なく互角以上に張り合っていました。

 前年は9名のみの参加だったラインダンスは、この年15名に拡大。シンシアもこの年から参加に回っています。また沖縄・名護市から桜の空輸が届いたシーンでは、前回同様フライトアテンダントにマイクを向ける役を務めていました。

第27回(1976年)「哀しい妖精」

ステージ

作詞:松本 隆 作曲:Janis Ian
前歌手:キャンディーズ、堺 正章
後歌手:
新沼謙治、太田裕美
曲紹介:佐良直美(紅組司会)、梓みちよ、小柳ルミ子、由紀さおり

佐良直美「今年の紅組の強さはこんな所にもございます。紅組の中から生まれました新しいコーラスグループをご紹介致しましょう」
梓みちよ「皆さまこんばんは。私たちフォーリーブスに対抗して生まれました、スリーブスでございます」
小柳ルミ子「いえ、一若二ババでございます」
由紀さおり「違います、ビューティフルレッドでございます」「綺麗にいきましょう」「よろしく」

 非常に豪華なコーラス隊ですが、梓さんが喋り始めるタイミングで曲の演奏が始まります。梓さんの喋りがやや遅く、由紀さんも一瞬言葉が詰まった結果、やり取り終了が歌い出しに間に合わず被る形になってしまいました。

 とは言え当時日本でも大人気のミュージシャンであったジャニス・イアン提供の楽曲とシンシアの歌声、コーラスの美しさはやはり絶品です。デビュー当時の曲と比べてレコード売上は高くないですが、いわゆる「隠れた名曲」としてファンには現在まで親しまれているナンバーとなっています。衣装は薄紫色のワンピースドレスに花の髪飾り、この時期になると紅白ではロングヘアーよりも飾り物や帽子・ウェーブ等のパーマをかけた姿がお馴染みとなっています。

応援など

 カントリー調の「ひとり旅」を歌う佐良直美のステージは紅組全歌手の応援でしたが、衣装をカジュアルなジーンズスタイルで揃えています。歌う前に軽いファッションショーあり、ブーツにオーバーオールのウエスタンスタイルという他番組ではまず披露していないであろう衣装で登場しました。その後は赤いブレザーを着て、こちらも全員参加となる研ナオコのステージに顔を見せています。

 ラインダンスは前年同様参加、規模はさらに大きくなりダンサーやゲストも含めて25名近くまで膨れ上がっています。終盤は白と緑を基調とした衣装、帽子を被っています。

第28回(1977年)「街角のラヴソング」

ステージ

作詞・作曲:つのだひろ
前歌手:佐良直美、三橋美智也
後歌手:松崎しげる、しばたはつみ
曲紹介:佐良直美(紅組司会)
踊り:南カリフォルニア大学チア・ガール

 4年前同様、この年も「街」のタイトルがつく曲対決になりました。もっとも対戦相手は20歳以上年上の大御所・三橋美智也。ニューフォーク調の新曲を独特の節で歌うステージとはやはり全く異なる内容です。

 「さあそちらも故郷ならこちらは国際的に参ります。カリフォルニアからも応援に駆けつけてくださいました。若さで勝負南沙織さん、「街角のラヴソング」、レッツゴー・シンシア!」とイントロが流れる中で曲紹介。78と書かれたユニフォームで踊るのは南カリフォルニア大学チア・ガール3名、紅白のダンサーとしてはおそらく当時初となる海外からの出演です。楽曲提供は既に「メリー・ジェーン」が大ヒット、この年は清水健太郎に提供した「失恋レストラン」が大ヒットしたつのだひろ。いつ頃から「つのだ☆ひろ」表記が一般化したのかは不明ですが、とりあえずこの年の紅白は「つのだひろ」表記でした。

 茶色を基調としたワンピースドレスに黒ブーツ、花の飾りが入る帽子。この年の紅白でも群を抜いたオシャレさです。元々比較的テンポの速い曲ですが紅白は例のごとくさらに速め、そのためチアガールの動きはかなり激しい物がありました。歌唱はリズム・声ともにバッチリで、7回目ともなるとさすがに安定感のある内容です。

応援など

 白と緑を使うオシャレなコーディネートで登場するオープニング、この年はあいうえお順の遅い歌手が真ん中になる進行なので序盤は他の年より映るシーンは多めです。なおこの年は用意していた衣装が少ないようで、エンディングは白い上着を脱いだ以外に変化無しでした。

 ステージ応援はまず西川峰子「ギター流して今晩わ」に参加。歌い出しの歌詞と全く変わらない、赤いジャンパーとGジャン姿で山口百恵八代亜紀他と踊ります。

 ラインダンスには3年連続で参加。この年はほぼ帽子を被っての出演で、髪を出している場面はこの時のみでした。デビューして数年の頃ほどではないものの、この年はナチュラルなロングヘアーです。

第42回(1991年)「色づく街」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:筒美京平
前歌手:原 由子、X
後歌手:KAN、サラ・ブライトマン
曲紹介:渡辺美佐子(朗読)

 1978年10月を最後に歌手業引退、したがって紅白の出場は一旦前年が最後になりました。この年も「春の予感」がCMソングに起用されてヒット、引退が無ければ間違いなく連続出場していたものと思われます。翌年の結婚後しばらく活動は無かったですが(1曲だけアグネス・チャンに歌詞提供あり)、1991年・第42回NHK紅白歌合戦で電撃的な復帰を果たします。

 オープニング・エンディング含めて他の場面の出番は一切無し、限りなく特別出演に近い待遇でした。歌う前の段取りも、他とは全く異なっています。直前のステージは初出場のX (X JAPAN)、そこからコント55号のコントを挟み、総合司会・山川静夫アナが一旦間を置いた後に次のステージが始まります。

 映像に映るのは暗転の中で床に舞うドライアイス、波の音が聴こえます。やがて20年前に大ヒットした「17才」が流れた後、作詞家・阿久悠からのメッセージ朗読が流れます。朗読を担当したのは俳優の渡辺美佐子でした。なおシングル曲で阿久悠がシンシアに提供した事例はありません(活動再開後に「約束」「愛は一度だけですか」を提供)。

 「少女がいました。風が吹いていました。振り返るほど遠くもないのに、背伸びするほど遠く感じられる70年代。それは原色に彩られた風が吹く、それぞれの青春でした。いま、あの風の時代を思うのは、心を揺すぶる風がピタッと止まってしまったからでしょう。時代はまた、青春の風を求めて少女を呼びました。少女の名は、南沙織。いま、新たなときめきの風が流れます…」

 舞台は少しずつ明るくなり、おとぎ話に出てくるような城がバックに浮かびあがります。その真ん中から、スパンコールの入る衣装を着たシンシアが登場。おそらくは1978年9月の『夜のヒットスタジオ』以来、13年ぶりのテレビ生歌唱です。

 トレードマークの髪型は、耳にはかかっているものの全盛期よりは確実に短くなっています。17歳の少女は、37歳・3児の母親となっています。ただ特徴のある歌声は昔と大きく変わってはおらず、ステップの踏み方は20年前と全く同様でした。美貌に関しては、年齢的な魅力が確実に増した麗しい姿に見えます。

 もっとも異なるのはやはり舞台に臨む緊張感で、左手で胸を抑える場面が非常に多いです。相当緊張していることがひと目で分かります。したがって”ね”で伸ばす場面の気持ちの入り方が、18年前の紅白に限らずどの映像と見比べても大きく見えます。胸いっぱいの歌唱は観客にも伝わったようで、間奏では自然に拍手が起こりました。

 歌い終わり、緊張から開放されてホッとした表情も非常に印象的でした。拍手で出迎えるのは和田アキ子八代亜紀欧陽菲菲山本リンダ石川さゆり。いずれも現役歌手当時に、紅白に限らず多くの歌番組で共演したかつての仲間です。

おわりに

 年が明けて以降、家庭優先の中で歌手活動も再開。その活動指針のため再度の紅白出場はありませんでしたが、1997年の新譜発表終了後も数年に1回はインタビュー取材に対応しています。たださすがに歌手活動復帰については否定しているようでした。

 ファンの発信力は以前から高く、引退が早かったことを考えると振り返られる機会も少なくない方ではあると思います。ただ1975年以降の活動はかなり多角的な印象もあり、引退の時期がもうちょっと遅ければ…と想像することもあります。とは言え10年前でも穏やかな表情を写真で見せていたことを考えれば、これで良いのかもしれません。今後も沖縄出身・女性アイドル・海外の要素も入るポップス歌手のパイオニア的存在として、長く語り継がれて欲しいとあらためて思うところです。

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました