紅白歌合戦・辞退の歴史・その3~苦難の平成初期編

1990年代前半

話にならないくらい辞退が連発

 史上初の2部制となった第40回(1989年)NHK紅白歌合戦。この年は「昭和の紅白」「平成の紅白」と明確に区分けしての放送でした。

 「昭和の紅白」は往年のベテランだけでなくピンク・レディーザ・タイガースも復活、さらには当時引退していた都はるみも呼び込めて大盛況でした。ところが一方の平成の紅白は、ヒットアーティストの辞退が続出します。以下、年間ランキング30位以内に入ったアーティストをピックアップ。

アーティスト出演可否オリコン年間ランキング最高位
プリンセスプリンセス辞退シングル1位・アルバム14位
松任谷由実辞退アルバム1位・シングル17位
久保田利伸辞退アルバム2位
長渕 剛不出場シングル3位・アルバム3位
光GENJI出場シングル4位・アルバム8位
中森明菜辞退アルバム4位・シングル28位
Wink出場シングル5位・アルバム19位
TM NETWORK不出場アルバム5位
工藤静香出場シングル6位・アルバム9位
杏里出場アルバム6位
BOØWY解散済アルバム7位
HOUND DOG不出場アルバム10位
渡辺美里不出場アルバム11位
岡村孝子不出場アルバム12位
男闘呼組出場シングル13位
THE BLUE HEARTS不出場アルバム13位・シングル29位
斉藤由貴不出場シングル14位
浜田麻里不出場シングル15位・アルバム23位
浜田省吾不出場アルバム16位
氷室京介不出場アルバム17位・シングル21位
爆風スランプ出場シングル18位・アルバム27位
BARBEE BOYS不出場アルバム18位
ZIGGY不出場シングル19位
COMPLEX不出場アルバム20位
レベッカ不出場アルバム21位
竹内まりや不出場シングル22位
田原俊彦辞退シングル23位
宮沢りえ不出場シングル25位
吉 幾三出場シングル26位
安全地帯不出場アルバム26位
中山美穂出場シングル27位
小比類巻かほる出場アルバム29位
中村あゆみ不出場シングル30位
PERSONZ不出場アルバム30位

 ランクインした34組のうち紅白出場は僅か9組、アイドルと演歌以外は元々テレビ出演の多かった爆風スランプと何とか交渉受諾したと思われる杏里(6年ぶり出場)と小比類巻かほる(前年は不出場)くらいです。もう少しランクが下になると聖飢魔IIもいますが、比較的タレント色の薄い若手J-POP系はこの4組を呼ぶので精一杯でした。

 明確に辞退と呼べる歌手ばかりではありませんが、不出場の面々も概ね交渉して応じるメンバーには見えません。長渕剛浜田麻里氷室京介なども前年までに辞退歴のあるアーティストです。さらに中森明菜も活動休止に伴う出場辞退、裏番組で近藤真彦(こちらは落選)と例の会見が生中継されます。

 背景には島桂次会長による紅白歌合戦廃止と、それに代わる『アジア音楽祭』開催の方針があったと言われています。前年までに出場した歌手も含めアジアからの出演は5組、その中には日本で馴染みの薄い方も存在していました。また、一昨年から続く多ジャンル化や、相変わらずの演歌メインの構成(特に終盤各7組はほぼ演歌でした)も若手J-POPから敬遠されやすい環境にありました。

 2部化になって初の放送だったため一概に言えない面もありますが、この年の紅白歌合戦2部の視聴率は関東で初の50%割れを記録。以降も第54回(2003年)まで長らく更新されない数字で、関東以外も全地区でダウンという状況でした。民放でも定番の歌番組が次々視聴率低下・番組終了を余儀無くされる中、特に若い音楽ファンを呼び込むにはあまりに弱いラインナップであったことは言うまでもありません。

海外アーティストを呼ぼう!

 翌年の第41回(1990年)、日本のアーティストは「おどるポンポコリン」のB.B.クィーンズや「さよなら人類」のたまが出場で何とか体裁を保ちます。副作用が大きかったものの長渕剛の招聘も成功、さらに第1部・第2部を一体とする改革も功を奏し、少なくとも前年よりはバラエティー豊かな内容になって視聴率も回復します。

 さてこの年の目玉は、何と言っても海外アーティストの招聘でした。地球規模を標榜する紅白は過去にない規模で出演交渉が行われ、中継もドイツ・ブラジル・韓国など多岐にわたります。

 さすがに海外なので多くのアーティストが辞退しますが、中には応じてくれるどころかわざわざ来日するアーティストも何組かいました。以下、この年の海外アーティストの出場と辞退の表です。なおこの年は紅組29組・白組27組発表後に各31組出演の予定が組まれていましたが、実際に発表されたのはポール・サイモン久保田利伸&アリスン・ウイリアムズのみでした。

 海外アーティストの出演は翌1991年・第42回も継続しますが、中継出演が不評だったこともあって来日が条件となります。それでもアンディ・ウィリアムスザ・ベンチャーズといった大物やまだ今ほど有名になる前のサラ・ブライトマンなどが出演、素晴らしいステージを見せてくれました。

出演アーティスト国籍当日の出演方法
ガリー・バレンシアーノフィリピン来日して歌唱
アリスン・ウイリアムズアメリカアメリカから中継、久保田利伸とデュエット
オユンナモンゴル来日して歌唱(日本でデビュー)
シンディー・ローパーアメリカ来日して歌唱、ステージ後インタビュー有り
アレキサンドル・グラツキーソ連来日して歌唱
マルシアブラジルブラジルから中継(日本で主に活動)
チョー・ヨンピル韓国韓国から中継(既に3回紅白に出場済)
ポール・サイモンアメリカアメリカから中継(おそらく録画)
ケー・ウンスク韓国来日して歌唱(既に2回紅白に出場済)
辞退アーティスト辞退理由
ホイットニー・ヒューストンオファーするも返答無し?
ジュリー・アンドリュース衛星中継の回線が確保できず
ジョン・デンバーオファーするも返答無し?
スティーヴィー・ワンダーオファーするも返答無し?
フランク・シナトラツアーのため、VTRなら出演可
ビリー・ジョエル家族との時間を過ごしたい

中堅~ベテランは紅白不出場がステータス?

 1990年代前半に紅白初出場したアーティストは、演歌を除くと連続出場の例が非常に少ないです。Dreams Come TrueX JAPAN米米CLUBなどが数少ない例ですが、後者2組もブレイクしてしばらくしてからの初出場でした。

 1990年~1992年にシングル・アルバムでオリコン年間TOP20入りしたアーティストを、出場と不出場に分けて表を作ると以下のようになります。

アーティスト出場年(第41回~第43回)オリコン年間ランキング最高位
B.B.クィーンズ第41回(1990年)1990年シングル1位
米米CLUB第43回(1992年)
※第45回~第47回も出場
1992年シングル1位
LINDBERG第43回(1992年)1990年シングル3位
KAN第42回(1991年)1991年シングル3位
たま第41回(1990年)1990年シングル4位
槇原敬之第42回(1991年)
※第43回は海外滞在の為辞退、第58回で復帰
1991年シングル4位
Dreams Come True第41回~第43回
※第48回まで連続出場
1992年アルバム5位
とんねるず第42回(1991年)
※第43回は辞退
1992年アルバム6位
工藤静香第41回~第43回
※第45回まで連続出場
1990年シングル8位
久保田利伸第41回(1990年)
※中継・当時未発表曲を歌唱
1990年アルバム8位
長渕 剛第41回(1990年)
※中継・未発表曲含む3曲歌唱
1991年シングル8位
沢田知可子第42回(1991年)1991年シングル11位
X第42回~第43回
※第45回まで連続出場
1991年アルバム12位
小野正利第43回(1992年)1992年シングル14位
バブルガム・ブラザーズ第42回(1991年)
HOUND DOG辞退による代役
1991年シングル16位
GAO第43回(1992年)1992年シングル16位
堀内孝雄第41回~第43回1990年シングル20位
原 由子第42回(1991年)1991年アルバム20位

 

アーティスト不出場理由オリコン年間ランキング最高位
松任谷由実おせちを作りたい(1992年)1990年~1991年アルバム1位
小田和正大晦日はテレビ出演しない(1991年)1991年シングル1位
CHAGE & ASKA大晦日はテレビ出演しない(1991年)1992年アルバム1位
サザンオールスターズコンディションが良くない(1992年)
原由子は第42回に出場)
1990年アルバム2位
浜田省吾1992年シングル2位
B’z1992年アルバム2位
プリンセスプリンセス1990年アルバム3位
渡辺美里1990年アルバム4位
大事MANブラザーズバンド1992年シングル4位
杏里1990年アルバム5位
中森明菜出場辞退(1990年)1990年シングル6位
小泉今日子出場辞退(1991年)1991年シングル6位
THE BLUE HEARTS1990年シングル7位
今井美樹1990年アルバム7位
中島みゆき1990年シングル10位
岡村孝子1990年アルバム10位
氷室京介1990年シングル11位
PINK SAPPHIRE1990年シングル12位
辛島美登里1991年シングル12位
ZOO1992年シングル12位
山下達郎1990年シングル13位
織田裕二1991年シングル14位
オヨネーズ1990年シングル15位
COMPLEX1990年アルバム15位
TUBE(第44回で初出場)1991年シングル15位
織田哲郎1992年シングル15位
牛若丸三郎太1990年シングル16位
レベッカ1990年アルバム16位
Wink辞退ではなく落選(1990年)1990年アルバム17位
TMN1991年シングル17位
平松愛理1992年シングル17位
竹内まりや1992年アルバム17位
徳永英明1990年シングル18位
JITTERINN’JINN1990年アルバム18位
GO-BANG’S1990年シングル19位
大江千里1991年シングル19位
BUCK-TICK1990年アルバム20位
大黒摩季1992年シングル20位

 表を見る限り、紅白出場組は突発的なヒットが多いです。ドリカムみたいな例外もいますが、多くが1回限りの出場で留まっています。中には自発的に1回限りに抑えたアーティストも見受けられます。

 CD売上が高い=出演交渉というわけではなさそうですが(例えば、第41回のLINDBERGは辞退という資料がありません)、さすがに1991年のミリオン2組には交渉したようです。全体的にどこまでが辞退でどこまでが落選か全て確証は持てないですが、オファーに応じなかったアーティストも当時多かったのではないかと思われます。また、あらためて表にしてもこの当時は紅白出場組より不出場組の方が長く継続して人気の歌手が多い傾向があるように見えます。結果論的な意見でもありますが、紅白歌合戦に出場しないことが大物のステータス…、そういった空気も当時あったのではないかと感じます。

 なお1991年はHOUND DOGが曲目で揉めて出場を辞退するという前代未聞のケースがありました。代わりに出演したのがバブルガム・ブラザーズ、歌唱後に「Thank you! HOUND DOG!」と感謝のシャウト。なおハウンド・ドッグ側が主張していた新曲「BRIDGE ~あの橋を渡るとき~」は、年が明けた後にCMタイアップ起用の影響で自身最高のCDシングルセールスを記録しています。

ビーイングの出現

 1990年代中盤、いわゆるビーイング系のアーティストがテレビ出演しないという戦略を取り始めるようになりました。

 1992年までは決してテレビ出演に消極的ではなく、B.B.クィーンズ解散後のMi-Keは2年連続出場。NHKでレギュラー番組も持っていたほどでした。WANDSもテレビで大活躍の中山美穂とデュエットで「世界中の誰よりきっと」が大ヒット、第43回(1992年)紅白にもゲスト出演。この曲での知名度上昇は、1993年以降の大ヒット連発にも繋がります。

 ZARDのMステ最後の出演が「負けないで」なのはよく知られていますが、実はWANDSも同時期の「時の扉」がラストでした。T-BOLANも1993年2月を最後に定期的な出演ストップ、テレビ出演を抑えることで逆にCD売上を増やす戦略を取ります。そのため歌番組側としては戦略が若干難しく、紅白もTUBEを出すのに精一杯という状況でした。1993年オリコンTOP30との対照表は以下の通り、おそらくビーイング系はオファーどころかそれをすることも難しかったのではないかと推測できます。

 ちなみに井上陽水は朝ドラ『かりん』主題歌を担当する中で辞退、その際の「恥ずかしいから」という文言は現在までよく語られています。

アーティスト出演可否オリコン年間ランキング最高位
CHAGE & ASKA辞退シングル1位・アルバム8位
ZARD(ビーイング)アルバム1位・シングル6位
B’z(ビーイング)シングル2位・アルバム6位
WANDS(ビーイング)アルバム2位・シングル7位
THE 虎舞竜落選シングル3位
サザンオールスターズ辞退シングル4位
Dreams Come True出場アルバム4位・シングル16位
松任谷由実辞退アルバム5位・シングル8位
氷室京介不出場アルバム7位・シングル13位
T-BOLAN(ビーイング)アルバム9位・シングル17位
中山美穂出場シングル10位
平松愛理不出場アルバム11位
DEEN(ビーイング)シングル12位
槇原敬之不出場アルバム12位
浜田省吾不出場アルバム13位
久保田利伸不出場アルバム14位
class不出場シングル15位
大黒摩季(ビーイング)アルバム15位・シングル23位
徳永英明不出場アルバム16位
今井美樹不出場アルバム17位
小泉今日子不出場シングル18位
渡辺美里不出場アルバム18位
工藤静香出場シングル19位
TUBE出場アルバム19位
森田童子不出場シングル20位
稲垣潤一不出場アルバム21位
LINDBERG不出場アルバム22位
プリンセス・プリンセス不出場アルバム24位
長渕 剛不出場シングル26位
中西圭三不出場アルバム26位
井上陽水辞退シングル27位
THE BOOM出場シングル28位
X JAPAN出場アルバム28位
藤井フミヤ出場シングル29位
浜田麻里不出場アルバム29位

トーク番組の隆盛とともに…

 流れが変わるのは1994年、TKファミリーの出現と音楽トーク番組の登場でした。

 次回に続きます。

 

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