紅白歌合戦・ザ・ピーナッツの軌跡~ステージ編~

 ここ最近は回ごとに本編とそれ以外に項目を分けていますが、1970年代前半以前の紅白は歌以外の出番がそれほど多くない上に、映像が無く確認できないケースも多くあります。

第10回(1959年)「情熱の花」

日本語詞:音羽たかし、水島 哲
作曲:Ludwig van Beethoven
前歌手:松島詩子、伊藤久男
後歌手:和田弘とマヒナスターズ、松山恵子
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)

 映像が残っておらず、音声からの紹介になることをご了承ください。

 曲紹介によると、ピーナッツのような物から登場したらしいです。「なかなか手の込んだ紅組の趣向でございます」と実況のアナウンスがありました。

 2コーラス歌唱、こちらも実況では「客席から盛んにテープが飛んでおります」のアナウンス。1963年では既に見られなくなっているので、おそらく1960年代前半に禁止事項になったのではないかと思われます。なお1962に、紙テープの芯が島倉千代子の目に当たって失明しかける大怪我がありました。

 「情熱の花」は2通り歌詞が存在していて、歌い出しの時点で”小さな胸に”と”私の胸に”で分かれています。どちらがどうかは別の詳しいサイトを見て頂ければと考えていますが、紅白で歌われたのは後者の歌詞でした。Spotifyで配信されている全曲集とラストコンサートも後者が収録されています。

 デビューした時期とほぼ同じくして、彼女たちがレギュラーを務めるフジテレビ『ザ・ヒットパレード』が放送開始。フジテレビ制作の音楽番組・芸能プロ(渡辺プロダクション)主導・すぎやまこういちがディレクターを務めるなど、あらゆる面で日本のテレビ番組史の礎と言える重要な番組となっています。

第11回(1960年)「悲しき16才」

訳詞:音羽たかし 作曲:I.Kosloff, I.Reid, Springer
前歌手:水谷良重、和田弘とマヒナスターズ
後歌手:フランク永井、越路吹雪
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)、鰐淵晴子

 歌唱前に女優の鰐淵晴子が応援に登場。当時15歳ながら映画界で大活躍、主演作品もいくつかありました。この年齢で22時前後の出演なので今だと問題になりそうですが、労働基準法だけで見ると問題はありません。いわゆる”光GENJI通達”でテレビ局側が自主規制するのは平成以降のことになります。NHKステラ増刊『紅白50年』などでこの時の写真も公開、メイコさんともどもかわいい和服姿でした。

 楽曲は1959年に発表したアメリカの歌手、ケーシィ・リンデン「Heartaches At Sweet Sixteen」のカバー。”ヤヤヤンヤン”の歌い出しが特徴的ですが、ハモリが加わっているという点では原曲を上回る出来と言って良いかもしれません。曲の長さはなんと1分53秒で当時でも屈指の短さ。そのため尺の短い当時の紅白歌合戦でも、堂々のテンポアップ無しフルコーラス歌唱でした。

 

第12回(1961年)「スク・スク」

訳詞:音羽たかし 作曲:Taratemos Rojas, F.Bonitay, A.Ferreri
前歌手:神楽坂浮子、井上ひろし
後歌手:ダーク・ダックス、淡谷のり子
曲紹介:中村メイコ(紅組司会)

 原曲はボリビアの歌手の作品で、当時新しいリズムの音楽として世界中でカバーされた楽曲だったようです。日本でも多くの歌手で競作になりましたが、一番ヒットしたのはザ・ピーナッツ盤でした。

 このステージは今に至るまで当時の音源がネットでも全く確認できません。写真や著書での言及も見当たらないので、正直全く分からないというのが現状です。

 ザ・ピーナッツとしてはこの年にクレージーキャッツとメインキャストを務める日本テレビ『シャボン玉ホリデー』が放送開始、1972年まで続く長寿人気番組となりました。また映画『モスラ』第一作公開もこの年ですが、いわゆる「モスラの歌」が音源化されたのは引退後の1978年。紅白どころか、おそらくテレビの歌番組での披露も一切無かったものと思われます。

第13回(1962年)「ふりむかないで」

作詞:岩谷時子 作曲:宮川 泰
前歌手:中原美紗緒、ダーク・ダックス
後歌手:春日八郎、美空ひばり
曲紹介:森 光子(紅組司会)

 ダーク・ダックスが歌い終わった後に森光子が呼びかけて「ふりむかないで」と答えて演奏開始。やや不条理なやり取りですが、こればかりは仕方のない所でしょうか。

 歌い出しのアカペラが非常に印象的な楽曲ですが、なぜか紅白ではそこがカット。少しイントロを演奏してすぐ”♪ふりむかないで”と歌う構成でした。もっともカットになったのはそこだけで、ややテンポが速いものの堂々のフルコーラス歌唱。

 楽曲は女性が歌う和製ポップス第一弾と位置づけても良い歴史的楽曲で、中村八大が作った「上を向いて歩こう」「黒い花びら」などよりも更にアメリカン・ポップス寄りの内容でした。ただ「恋のバカンス」「恋のフーガ」などが更にヒットしたことで、後年の知名度はそこまで高くありません。1990年代の60年代ブーム中に、Winkがカバーしてシングル化されていますが、こちらはあまりヒットせずという結果でした。

第14回(1963年)「恋のバカンス」

作詞:岩谷時子 作曲:宮川 泰
前歌手:ペギー葉山、デューク・エイセス
後歌手:春日八郎、五月みどり
曲紹介:江利チエミ(紅組司会)

 日本の歌謡史における最重要作品です。平成以降もコマーシャルや歌番組などで幾度となくカバーされ、もはやザ・ピーナッツというアーティストを超越した楽曲になっています。近年の10代や20代によっては、限りなく童謡に近い存在と考えて良いのかもしれません。紅白でのオリジナル披露は1回だけですが、第56回(2005年)の企画コーナー「昭和・平成ALWAYS」でみのもんたを宙吊りにするシーンで演奏されたのはこの曲でした。

 既に本編レビューで書きましたが、歌う前にイタリアの人気歌手、カテリーナ・ヴァレンテからの電報が届くことを知って大喜びしています。12月にオーストリアで共演を果たしますが、彼女もその後「恋のバカンス」を筆頭に、多くのザ・ピーナッツのオリジナル楽曲をカバーする形になりました。「上を向いて歩こう」が「SUKIYAKI」としてビルボード全米1位を記録したのが1963年ですが、ザ・ピーナッツの2人もこの年以降ヨーロッパでの活動が盛んになり何度も海外を訪れています。

 1本のマイクを2人で歌い、僅かな時間の間奏では手拍子をして会場の盛り上げを促しています。演奏はオリジナルと比べるとやや落ち着いた調子で、少しテンポ速め。ラストのロングトーンでは、歌い終わらないうちに大きな拍手が挙がりました。

 当時の紅白は最初から最後までステージ含めて同じ衣装の歌手も多くいますが、彼女たちはオープニング(黒が基調?)とステージで別の衣装を着ていることが確認できます。歌以外で出場歌手参加の余興もこの年は中盤の応援合戦くらいですが、事務所の後輩で共演も多いスパーク3人娘のステージでは「キューティ・パイ」に合わせて一緒に踊る姿が確認できます(ステージの様子)。

第15回(1964年)「ウナ・セラ・ディ東京」

作詞:岩谷時子 作曲:宮川 泰
前歌手:吉永小百合、橋 幸夫
後歌手:坂本 九、美空ひばり
曲紹介:江利チエミ(紅組司会)

 東京オリンピックが開催されたこの年は、閉会式後のイベントにも招待された坂本九との東京ソング対決でした(九ちゃんは「サヨナラ東京」を歌唱)。トリ前の曲順はグループ歌手初の抜擢、そもそも対戦相手がグループ同士でないのもこの時が初でした。前年紅白各4組ずつで揃えられた選出も、この年は紅2・白4と分かれています。

 後年の紅白でも2度歌われていますが、もしかするとこの年の映像が残っていないのも繰り返し歌われた理由の一つかもしれません。音声を聴く限りでは、宮川泰が指揮をした後年と比べてややテンポ速めキー低めに聴こえます。ただ決してあっさりした内容ではなく、2回目の繰り返しやラストのタメもしっかり入っていました。

 

第16回(1965年)「ロック・アンド・ロール・ミュージック」

作詞・作曲:チャック・ベリー
前歌手:水前寺清子、デューク・エイセス
後歌手:フランク永井、坂本スミ子
曲紹介:林美智子(紅組司会)

 チャック・ベリーが1957年にヒットさせた曲ですが、この時期はビートルズのカバーが大ヒットしていました。日本でも翌年に弘田三枝子がカバーしますが、それより前にザ・ピーナッツが紅白で披露しています。なお音源化はされていない様子です(歌唱自体はコンサートや他の歌番組でもありそうですが…)。

 紅組司会の林美智子が三三七拍子で観客のテンションを上げた所で演奏開始。曲紹介も「賑やかにまいります」の文言がつきました。ザ・ピーナッツの2人は走ってマイクに向かい、そのまま勢い良く歌唱開始。ほぼ全編英語詞ですが、オリジナルの日本語詞も僅かに加わっています。

 間奏でダンサーが登場、2人は前方のエプロンステージに移動してダンスを披露。踊りには弘田三枝子をはじめとする紅組歌手も加わっています。他の紅組歌手は曲に合わせて手拍子するというノリですが、ピーナッツの2人はダンサーと同じ手足の動きで振付あり。2年前のスパーク3人娘のステージでは中尾ミエ伊東ゆかりがペアで踊る演出、クレージーキャッツも「ホンダラ行進曲」で振付らしき物はありましたが、あれはほぼその場のノリに近い内容でした。映像が残っていないのでその時の紅白しか比較対象はありませんが、もしかすると出場歌手が振付ありで踊るステージはこれが初めてだったかもしれません。

 そのまま2番は固定マイクのない中で歌いますが、おそらく衣装にピンマイクが仕込まれている物と思われます。ラストは紅組の演奏を担当する楽団に向けてコール&レスポンスするような場面あり、これも紅白では初の試みではないかと思われます。

 紹介はありませんでしたが、演奏を担当したのはジャッキー吉川とブルーコメッツでした。彼らはこの年『ザ・ヒットパレード』で多数の歌手のバックバンドで注目され翌年レコードデビュー、これがグループサウンズ時代の幕開けとなります。

 というわけで非常に革命的なステージでしたが、外国曲ということもあって1990年代に放送されたカラー版の再放送ではカットされる形となりました。2020年に鈴木雅之が紅白歌合戦に復帰した際、小学校の時に見たこのステージを思い出に残る紅白として挙げています。

第17回(1966年)「ローマの雨」

作詞:橋本 淳 作曲:すぎやまこういち
前歌手:吉永小百合、加山雄三
後歌手:ジャッキー吉川とブルーコメッツ、越路吹雪
曲紹介:ペギー葉山(紅組司会)

 『ザ・ヒットパレード』の番組を発案したのは当時フジテレビ・ディレクターだったすぎやまこういちですが、前年にフジテレビを退社。在職中にも作曲家としての活動はありましたが、この時から本格化します。「ローマの雨」は、ザ・ピーナッツに初めて提供した曲であるとともに、作曲家として紅白で初めて歌われた楽曲でもありました。

 翌年提供する「恋のフーガ」はアップテンポですが、この曲は2人のハーモニーでムーディーに聴かせる楽曲でした。代表曲の一つではありますが、ステージは他の年と比べるといささか地味な内容にも見えます。

 この年最大のハイライトは、何と言ってもアメリカの大人気番組『エド・サリヴァン・ショー』出演。これは当時の日本の歌手にとって、海外進出への大きな足がかりになったと言われています。

 

第18回(1967年)「恋のフーガ」

作詞:なかにし礼 作曲:すぎやまこういち
前歌手:都はるみ、アイ・ジョージ
後歌手:三波春夫、美空ひばり
曲紹介:九重佑三子(紅組司会)

 「恋のバカンス」と並ぶザ・ピーナッツの代表曲で、1967年の大ヒット曲の一つです。また、なかにし礼作品が初めて紅白で歌われた曲の一つでもありました。作曲家の筒美京平も、弘田三枝子「渚のうわさ」がこの年に紅白初歌唱となっています。男性ボーカルはグループサウンズが多くブレイクした年ですが、女性ボーカルも和製ポップスが非常に目立った一年でした。両組のトリが三波春夫美空ひばりという大御所なので、トリ前の曲順となったこのステージは実質的にトリと言って良い扱いと考えて良いのではないかと思われます。

 なお対戦相手がアイ・ジョージになったのは、世界を股にかけて活躍する歌手同士の対決ということが理由だったらしいです。各年の曲紹介はほとんどが世界的な活動に触れる内容でしたが、この年は「名古屋の皆さまお待たせしました」と珍しく彼女たちの地元がクローズアップされています。

 紅組歌手が他ステージのコーラスを担当するケースは既に前年から見られましたが、ティンパニ演奏での参加はこの時が唯一です。梓みちよ中尾ミエ伊東ゆかり園まりといったナベプロの後輩が、力強い音を鳴らしていました。元々が2分半の短さなのでステージはもちろんフルコーラス、フェイドアウトで終わるアレンジに対して紅白はスキャットで歌い上げる形で締めます。スピーディーな演奏と歌声・アレンジは原曲を大きく上回るダイナミックさで、特に声圧が凄まじいことになっていました。

第19回(1968年)「ガラスの城」

作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦
前歌手:ピンキーとキラーズ、ジャッキー吉川とブルーコメッツ
後歌手:西郷輝彦、三沢あけみ
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)
踊り:スクール・メイツ

 曲紹介では「世界のアイドル」と言う文言が使用されています。アイドルという言葉が使われ始めたのは、ちょうどこの時期だと言われています。

 現在NHKで残っている映像は白黒ですが、この年はカラーの写真が残っています。そこでは金色の衣装で歌っている姿が確認できます。

 バックで踊るスクール・メイツは、データ&エピソード編ではこのステージが初登場と書きましたが、第16回で登場したダンサーもスクール・メイツの可能性はあります。ただ3年前は5名程度だったのに対して、この年は10人以上参加するステージでした。

 間奏で彼女たちと一緒の動きで踊るのは3年前同様、ただ固定マイク→ピンマイクだった当時と違ってここではコード付きマイクを使用しています。コード付きとは言え、自由にステージを回ることが出来るマイクが使えるようになったのは演出面で大きな進歩でした。軽快なステップは直後に歌う西郷輝彦の曲紹介でも引用されますが、これについては既に記事にしたこちらを見てください

第20回(1969年)「ウナ・セラ・ディ東京」

作詞:岩谷時子 作曲:宮川 泰
前歌手:ピンキーとキラーズ、フランク永井
後歌手:舟木一夫、佐良直美
曲紹介:伊東ゆかり(紅組司会)
指揮:宮川 泰

 この年の夏に第1回が放送された『思い出のメロディー』が好評、さらに20回記念ということもあって当時では異例の過去曲が多い紅白歌合戦となりました。11回目の出場、やや目立つヒットが無かったこともあって5年前の曲を再度歌う形となります。なお宮川泰はこの年に関して言うと、ゲストではなく紅白編曲担当の1人でした(オープニングとエンディングでクレジットあり)。

 オープニングが大きくリアレンジ、宮川先生は早々に体をダイナミックに使った指揮を見せます。ブラスバンドの音が、原曲と比べて全体的に大きくなっています。2度あったアカペラのロングトーンではいずれも大きな拍手、特にラスト10秒は引きの映像で紅組歌手のスタンディングオベーションが起こる圧巻の内容でした。

 この年は歌以外にもう1つ名場面があります。中盤に設けられた応援合戦、紅組の演目は伊東ゆかり弘田三枝子と一緒に歌う「ポピュラーヒットメドレー」でした。この年にヒットした「恋はおしまい」「雨」「ラブ・ミー・トゥナイト」「西暦2525年」「レット・ザ・サンシャイン・イン」をメドレーで歌う内容でしたが、4人とも凄まじい歌唱力で大いなる存在感を見せつけていました。

第21回(1970年)「東京の女」

作詞:山上路夫 作曲:沢田研二
前歌手:和田アキ子、水原 弘
後歌手:野村真樹、日吉ミミ
曲紹介:美空ひばり(紅組司会)

 ナベプロの後輩、そして後に伊藤エミの夫となる沢田研二が楽曲提供。大ヒット曲ではありませんが、2000年に椎名林檎がカバーしていることでも知られています。紅組3番手は、全16回でもっとも早い曲順でした。

 5コーラス、銀座・赤坂・青山・新宿・東京と歌われる曲ですが、紅白では青山がカットされる4コーラスでした。この曲は東京単位ですが、当時は全国を股にかけるご当地ソングのヒットもいくつかありました。そういえば、この年からエメロンのCMソングで歌われたハニー・ナイツの「ふりむかないで」もそういった曲でした(レコード発売は1972年)。

 

第22回(1971年)「サンフランシスコの女」

作詞:橋本 淳 作曲:中村泰士
前歌手:本田路津子、フランク永井
後歌手:堺 正章、渚ゆう子
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)

 フランク永井「羽田発7時50分」に続くステージです。白組司会の宮田輝が紅組司会の水前寺清子にレイを贈ろうとしますが、何度となく書いているようにこの年の紅白歌合戦は特に時間の余裕がありません。フランクさんの後に1秒ほどの間ですぐ演奏開始、チータは宮田アナの話を全く聞かないうちに曲紹介するような状況でした。

 「東京の女」「大阪の女」に続く「~の女」シリーズで、サンフランシスコの次はリオが舞台になりました。曲の舞台は外国ですが、楽曲は16回の出場の中でもっとも歌謡曲の色が強いです。サンフランシスコを舞台にした曲は既に渡辺はま子が「桑港のチャイナタウン」を紅白で4度も歌唱、外国曲でも第14回(1963年)の雪村いづみ「想い出のサンフランシスコ」があるので実は意外とお馴染みです。そのせいでしょうか、楽曲そのものは素晴らしいですがステージはピーナッツ単位で言うとやや平凡な内容でした(なお映像は確認していません)。

第23回(1972年)「さよならは突然に」

作詞:山上路夫 作曲:鈴木邦彦
前歌手:南 沙織、野口五郎
後歌手:ビリー・バンバン、本田路津子
曲紹介:佐良直美(紅組司会)
指揮:宮川 泰

 大ヒット曲ではありませんが、1968年から集計開始されたオリコンのデータ上では一番のレコード売上を記録しています。若手が目立つ中での登場になりますが、「さよならをするために」で初出場のビリー・バンバンとは紅白初の兄弟ユニット対決となっています。

 前年まで2年連続布施明の指揮を担当していた宮川泰が、この年3年ぶりにこちらでタクトを振ります。原曲はもう少しゆったりとしたメロディーですが、紅白のステージは相当速いテンポにアレンジされていました。エレキギターが目立つ編曲も、オリジナルとは全く異なります(これはこの年の紅白全体における傾向でしたが)。

 やや過剰にも思える演奏ですが、そもそも宮川先生の動きも必要以上に大きいのでそうなるのも当然の結果でしょうか。ただ個人的には原曲より紅白を先に目にしたこともあって、こちらの方が迫力も大きいのでしっくりきます。

第24回(1973年)「ウナ・セラ・ディ東京」

作詞:岩谷時子 作曲:宮川 泰
前歌手:山本リンダ、上條恒彦
後歌手:(中間発表)、アグネス・チャン、郷ひろみ
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)、和田アキ子(同応援団長)、佐良直美
指揮:宮川 泰

 チータ・佐良・アッコの電報読みと漫才のようなやり取り後に、ステージ開始。「優雅」「懐かしくソフトに甘く」という言葉が使われた曲紹介でした。

 まだこの時点で解散は決まっていませんが、後世から見るとこのステージが紅白歌合戦におけるザ・ピーナッツの決定版に見えます。宮川先生の指揮、ハープ5台を用いた演奏、白のイブニングドレスを着た2人の美しさ…。原曲よりもゆったりとしたリズムが、ハーモニーの素晴らしさをより際立たせています。

 ヴァイオリンのソロからドラムロールが鳴り、2人で締めるラストの歌声はまさに鳥肌モノでした。13秒にわたるロングトーンの演奏は完全に大トリ用のアレンジ、その間3方向からそれぞれズームアウトするカメラワーク。間違いなく、歴代の紅白歌合戦でもトップクラスの名シーンです。宮川先生も最後は思わず指揮棒を投げ捨てていました。

 ステージ終了後は着物を着た3人のミス東京が、ピーナッツの2人と宮川先生に花束を渡します。ただあそこまで圧巻の内容を見せつけられると、この演出は不必要なシーンだったかもしれません。

第25回(1974年)「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」

前歌手:八代亜紀、五木ひろし
後歌手:布施 明、いしだあゆみ
曲紹介:佐良直美(紅組司会)
ダンス:江夏ルミ、ポピーズ・シャルマン
指揮:宮川 泰

 1941年にアンドリューズ・シスターズが歌ってたナンバーですが、1973年のベット・ミドラーがカバーしたことで広く話題になりました。シングル化はされていませんがテレビ番組やコンサートでの歌唱がこの時期多く、ラストコンサートでも披露されています(Spotifyにも音源あり)。

 海外からの電報も多く届いたという流れで曲紹介。曲名タイトルは全編英語ということもあってか作詞作曲クレジット無しでした。翌年のフォーリーブス「ハッピー・ピープル」は作詞作曲名が入っているので、おそらくこれがテロップに作詞作曲の名前が入らない最後のケースになるかと思われます。

 金色のイブニングドレスを着て歌う2人、ダンサーはスタイルの良い紫色の衣装を着た女性11人。間奏で「江夏ルミ」「ポピーズ・シャルマン」と個人名・グループが併記される形でテロップ表示されますが、江夏さんの情報はネットで調べても全く見つかりませんでした。振付担当なのか1960年代後半の金井克子みたいな個人としての参加なのかも不明です。

 終始休み無く踊りを交えながら歌うステージは、9年前の「ロック・アンド・ロール・ミュージック」より動きは多いように見えます。長く第一線にいるとは言え当時33歳、もちろんこの年齢でこれだけ歌い踊る歌手は過去にいませんでした。宮川先生も過去2年ほど動きは激しくないですがノリノリで、最後は前年同様指揮棒をステージ中央に投げ飛ばしています。

 ちなみにこの年は前半山本リンダのステージで梓みちよ小柳ルミ子と一緒にダンスを披露、さらに4つ前のステージでは網タイツ姿でラインダンスにも参加していました。画面から見て左端がエミさん、右端がユミさんという立ち位置となっています。なお1974年時点では、出場回数・年齢ともに島倉千代子に次ぐ2番手となっていました(もっともお千代さんでさえ当時まだ36歳という若さでしたが…)。

おわりに

 解散・引退を発表したのは1975年2月18日で、当然前年の紅白では一言もそれについては触れられていません。4月5日のNHKホールがラストコンサート、その後は一度も以前のように歌うことなく伊藤エミは2012年、伊藤ユミは2016年に逝去しました。

 解散後も彼女たちの足跡は何度もテレビ・ラジオ・雑誌で触れられています。非常に充実した内容の個人ホームページも作られています(勝手ながらリンク)。その点では数多くの功績が正当に評価されているアーティストだと思いますが、だからこそ直接知らない世代にも彼女たちの偉業を伝える必要があるように感じます。

 データ&エピソード編でも触れたように、最近は女性ボーカルグループの活躍が紅白歌合戦でも目立っています。特にPerfumeは先輩の記録まであと2回となる14回連続紅白出場、気がつけば年齢も最後に出場した1974年当時と同じになりました。日本だけでなく、海外での活動が積極的な点でもザ・ピーナッツと共通しています。

 以前からファンとしては16年連続紅白出場という記録を目指して欲しいと考えていましたが、いよいよこれが視野に入りつつあります。果たしてどうなるでしょうか。個人的には是非並ぶかもしくは更新して欲しいと同時に、これを機にまたザ・ピーナッツの偉大さが語られて欲しいとあらためて願うところです。

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