第14回(1963年)NHK紅白歌合戦~その8~

植木 等(2年連続2回目/第13回/東芝/37)「どうしてこんなにもてるんだろう」「ホンダラ行進曲」

 「日本一責任感の強い男」植木等がはっちゃけながら登場。「どうしてこんなにもてるんだろう」を一節歌った後、前回に続いてハナ肇とクレージーキャッツが登場。「ホンダラ行進曲」を1番は実質バックダンサー、2番は7人で一緒に歌います。

 両腕を左右に振って横にいるメンバーの胸に当てる振り付けは、背の低い桜井センリだけ首に当たる形。でもって、一回しゃがんで当てようとした犬塚弘が空振り。ラストサビで7人が1本のマイクを争う場面でも、最終的には桜井さんが他のメンバーに見つめられながら歌うというおいしい場面を獲得。ラストはリーダーのハナ肇が♪ホンダラホダラダホイホイ!と締めました。(2分33秒)

 

(解説)
1つのステージで2曲歌うメドレー方式は、紅白の歴史上これが初めて。そしてこれ以降登場するのは、第22回のダーク・ダックスとデューク・エイセス、さらにその後は第28回の佐良直美と期間が空きます。昭和の時代の紅白は、今みたいにメドレーが選曲されることはレアケース。珍しくなくなったのは、平成4年(1992年)のドリカム・米米CLUB辺りからでしょうか。

・「日本一責任感の強い男」と曲紹介された植木等。言うまでもなく「無責任一代男」が代名詞ですが、本当は極めてマジメな人であることは当時の時点でよく知られていたことのようです。

・クレージーキャッツは第13回以降、出場歌手としては第18回までですが、それ以降も第23回まで頻繁に白組応援ゲストとして出演。東京宝塚劇場からNHKホールに会場が代わったと同時にグループでの出演はなくなりましたが、ハナ肇、植木等、谷啓は個別でそれぞれ何度か出演しています。なお出場歌手として植木等名義なのは第16回までで、第17回・第18回はハナ肇とクレージーキャッツとして出演という形でした。

伊東ゆかり(初出場/第14回/キング/16)「キューティーパイ」

園 まり(初出場/第14回/ポリドール/19)「女王蜂」

中尾ミエ(2年連続2回目/第13回/ビクター/17)「バイ・バイ・バーディー」

 「ハイハイ3人娘」という触れ込みで登場、ステージに走る途中「本物の若さです!」と中尾ミエがアピール。まず歌うのは今回初出場となる伊東ゆかり「キューティーパイ」。中尾ミエと園まりだけでなく、弘田三枝子、ザ・ピーナッツ、楠トシエという面々も一緒にゴーゴーを踊ります。

 しっとりしたバラードで聴かせる園まり「女王蜂」。バックでは中尾ミエと伊東ゆかりが2人手を繋いでダンス。途中白組歌手席に乱入する場面もあって(標的はやはりジェリー藤尾)、動きは大変コミカル。本来の歌より、そちらの方に会場も目がいっている状況でしょうか。大きな歓声が湧き上がります。

 ラストは紅白一年先輩となる中尾ミエが「バイ・バイ・バーディー」を大熱唱。ビシッと歌で決めてくれました。ただポイントが高かったのはやはり踊りのようで、「ああ踊られるとは思わなかったんです」とは歌終わりの宮田輝・談。(3分3秒)

 

(解説)
・中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりの3人で当時呼ばれていたのは「スパーク3人娘」。曲紹介ではハイハイ3人娘とありましたが、これは同年1月に公開された3人主演の映画タイトルによるものでした。ちなみにスパークの由来は、フジテレビで放送されていたレギュラー番組『森永スパーク・ショー』。そうなるとNHKとしてはハイハイ3人娘と呼称した方がやはり良さそうです。

・3人で1つのステージは、第9回~第11回で白組とグループの数を合わせるために即席で作られたユニット以来。第9回はダーク・ダックス出場に伴い水谷良重(現・水谷八重子)中心に3人、第10回はザ・ピーナッツが初出場したもの白組も和田弘とマヒナスターズが初出場で2枠になっため宝とも子中心に3人、第11回は同様に沢たまき中心に4人といった具合でした。

・このスパーク3人娘でステージ1つという形式は翌年も続きますが、そちらは「夢みる想い」のカバー1曲のみ。この時点で既にそれぞれ個別でも活躍していたので、何だか勿体ないという印象が後世から見てもありますが、実際当の3人もこの選曲には不満があったようです。以降、紅組3組で1ステージ構成は第56回のハロプロ枠(松浦亜弥・DEF.DIVA・モーニング娘。)まで待つ形になります。

・園まりの「女王蜂」で踊る2人はどうやらアドリブだったそうで、本番が終わってからスタッフに大変怒られたらしいです。映像を見ても分かりますが、主役を取られた形の園まりの表情は若干不機嫌そうでした。

三波春夫(6年連続6回目/第9回/テイチク/40)「佐渡の恋唄」

 2年ぶり2度目の白組トリ。テンポよく手拍子が響き渡る楽曲を3コーラス。1番でワイヤレスマイクを使い演出は雪村いづみと同様ですが、全くタイプの異なる楽曲で採用しているところが面白いです。(2分6秒)

 

(解説)
・後年、第43回で細川たかしが「佐渡の恋唄」を歌いますがこれは同名異曲。歌詞サイト検索は細川さんの楽曲がほとんどで、あろうことか三波春夫歌唱の分も細川版表記になっているケースも発生しています。

・マイクの件は雪村さんの項目で少し触れました。ハンドマイクが使われ始めたのは3年後の第17回からで、それがメインになるのは第22回からです。

・バンドが出演して、メンバーそれぞれ一本ずつマイクが用意されるのは第18回のブルー・コメッツ「ブルー・シャトー」から。つまり言うと、初出場した時の第17回で「青い瞳」を歌った時は無理やり1本のマイクで3人演奏しながら歌っていたわけです。

・この年6月に「東京五輪音頭」がリリースされて三波盤が大ヒットしますが、それに際しては後述。なお三波さんの特集記事については、データ&エピソード編・ステージ編(1, 2, 3)と作成済です。

美空ひばり(7年連続8回目/第5回/コロムビア/26)「哀愁出船」

 この3年は同レーベルの島倉千代子に紅組トリを譲っていましたが、今回は紅組を大トリにすることも考えてか4年ぶりにトリ復帰。ここ3回白組が3連勝という状態だったので、そこも加味しての選出だったのかもしれません。

 ゆったりとしたテンポで2コーラス熱唱。アウトロも実に丁寧に時間を取ってます。まだ26歳という若さですが、美空ひばりの歌声は早くも格の違いを見せつけています。一つ一つの表現と声の奥深さと細かい節回しを要求される技術は、類稀なる才能と本人の姿勢が最大限に噛み合った賜物と言って良さそうです。(2分56秒)

 

(解説)
・美空ひばりが紅組トリを初めて務めたのは、民放裏番組からNHKに取り戻した第8回で「長崎の蝶々さん」を歌った時なのでまだ20歳の頃。しかも並み居る先輩方を抑えての大トリでした。もっともこの時の白組トリも2回目出場の三橋美智也、これは実績より当時一番人気・勢いのあるスターを優先するという意図が非常によく分かる選出だったように思います。平成以降は中期に至るまで50代~70代の北島三郎五木ひろしといったベテランが大トリのメインという状況だったので、その点なかなか難しい部分はありました。

・考えてみれば、美空ひばりの初ヒットは1949年の「悲しき口笛」で12歳の時。そもそもデビュー初期の時点で、後世の偉大な歌手と比較しても格が違います。この年以降、結果的には10年連続で紅組トリとして君臨する形になりました(特に第18回以降は6年連続大トリ)。

・それによる歪みも、特に1969年辺りから如実に出てくるようになりましたが、これに関しては特集記事で触れています。データ編ステージ編と作っているので、ご参照ください。

エンディング

 舞台下手の電光掲示板に、投票が反映される形。まずは地方審査の結果が一つずつ読み上げられます。

 福岡は紅1点、白1点。松山は紅2点獲得。広島は大接戦の結果紅2点。大阪は藤田まことが買収した結果もあって?やはり紅2点リード。大喜びの紅組歌手陣の姿が映ります。

 名古屋は仲良く紅1点、白1点(審査員紹介では絶対紅だ絶対白だと言ってて仲良くはなかったような…)。仙台は審査員の意見が最後まで決まらず、結局紅2点(ここも紅か白かで揉めてたような…)。札幌は紅1点、白1点。というわけでここまでの合計は紅11点白3点。かなりの差がついています。

 最後の決め手となる特別審査員票。長沢泰治審査委員長がマイクの前に立って、結果を読み上げます。1つ1つ読み上げられるごとにランプがつきます。

 「白、紅、白、紅、紅、白、紅、白、紅、紅、白、紅、紅、以上が会場の結果であります。したがいまして、総得点紅19白8。紅組女性軍の勝ちと決定いたしました。」

 ファンファーレが鳴り、天井からは紙テープが降下。春日由三大会委員長から紅組司会・江利チエミに優勝旗が授与されます。また、白組司会・宮田輝には長沢審査委員長からトロフィーが贈られます。客席から熱狂的な松山恵子ファンから「おけいちゃん良かったね!」の声が聴こえます。

 来たるべきオリンピックの年、1964年を讃えて今回は東京オリンピックの歌、「東京五輪音頭」を全員で合唱。指揮はお馴染み藤山一郎。舞台上に紅白歌手全員が集まり、和服姿の日本舞踊の踊りも入ります。次年に控える東京オリンピック、おそらくおおいに盛り上がることでしょう。あらためて、非常に楽しみです。ラストはオープニング同様、再び東京宝塚劇場の外からの中継で幕を閉じました。

 

(解説)
・第13回以前の集計方法が全く分からないので何とも言えないですが、翌々年の第16回から第19回まではボールで数える形式の集計となっています。この1つ1つソケットが設けられる点数表示式は第20回でも使われました。第21回・第22回は連想ゲーム型、総投票数が多くなる第23回以降は左もしくは両サイドから順々に赤か白か表示される形式の電光掲示板型がしばらく続きました。

・優勝チームに優勝旗が授与されるのは第1回からの伝統ですが、この時代負けたチームにも、時には”第2位”と称してトロフィーが授与されていました。これは第19回まで続きます。また大会委員長が優勝旗を授与するのは第55回まで続きますが、第20回では総合司会の宮田輝アナ、第27回~第29回は特別審査員から一人選ばれて優勝旗返還・授与を担当します。

・エンディングは基本「蛍の光」ですが、この年に限っては「東京五輪音頭」がエンディングで歌わる形になります。NHK制定曲で、楽曲発表は1963年オリンピックデーの6月23日。各社競作で歌われたのはテイチクの三波春夫、ビクターの橋幸夫、キングの三橋美智也、東芝の坂本九、コロムビアの北島三郎・畠山みどりなどなど。まだまだ作曲家はレコード会社専属が当たり前であった時代、この曲はコロムビア専属の古賀政男作曲でしたが、録音権を各社に開放したという点でも画期的な作品でした。

・最終的に一番ヒットしたのは、この五輪に対する思いが人一倍強かった三波春夫レコーディング盤。当然1964年の第15回も大トリですが、歌われたのは「俵星玄蕃」でした。三波先生個人が紅白で歌うのは、意外にも平成最初の紅白となった第40回の前半1回のみ。ただその後2020東京五輪決定にあたって福田こうへいが2度、伍代夏子が1度披露しています。

・指揮の藤山一郎は、言うまでもなく第1回から紅白に携わっている人物。白組歌手としての連続出場は第8回までで、その後は「蛍の光」だけでなくオーケストラピットの東京放送管弦楽団の指揮も担当。それ以降も総合指揮などを担当、本当の意味で「蛍の光」のみの出番になるのは第25回以降でまだしばらく先の話。

まとめ、全体を通した解説

 以下、箇条書きでそれぞれ記します。

・1970年代までの紅組司会は歌手兼任がほとんどを占めますが、その原点がこの年の江利チエミ。歌手としてのパフォーマンスも、女優としても、そして司会としても一流っぷりを発揮してなおかつ謙虚さが分かるこの内容。60年近く経った立場から見ても、素直に凄いと思えるのではないでしょうか。それだけに1982年、45歳の若さで亡くなってしまったのは日本芸能界にとって最大級の損失と言わざるを得ません。美空ひばり、坂本九もそうですが、現在まで健在ならば相当大きく変わっていた部分もあったように思います。紅白で言うと、特に平成初期はそうでしょうね…。

・後年の1970年代、もっと言うと1968年・第19回の時点で結構バタバタしましたので、それらと比べると大変落ち着いた紅白という印象が強いです。いやそれより前でも第9回や第5回は大変な状況だったので、その点ではもしかすると谷間に近い紅白なのかもしれません。ただお笑いの方でテレビから生まれたスターというのがまだクレージーキャッツくらいしか存在していなかったので(ドリフが第18回、コント55号が第19回初出演)、その辺りはまだ発展途上の状況だったと言えなくもないでしょうか。

・舞台は上段、下段があって間に階段があるという形。一応オーケストラピットの前にも通路はあるのですが、歌のステージでは全く使われていません。これは、司会者マイクと歌手用マイクの4本のみでハンドマイクはまだ登場せず、ようやくワイヤレスマイクが導入されたという段階によるものです。この時代のステージの発展は、セットではなくむしろマイク技術の向上による部分の方が大きかったようですね。スタンドマイクが増えてハンドマイクが導入されてようやく、動きながら歌うことが当たり前となってきます。ちょっと前まではテレビよりラジオの方が主流だったこの頃、振り付け有りで動き回って踊る歌手は、まだこの時代存在していません。

・この回は、というより当時は当たり前でしたがテレビでも適宜ステージの実況が入りました。担当したのはスポーツ実況の主力・土門正夫アナ。翌年の東京五輪では女子バレーボールの金メダルや閉会式の実況を担当しています。紅白では、第25回で総合司会を担当。近年スポーツ実況が紅白に携わることはまずありませんが、この時期だと北出清五郎や鈴木文彌が何度か担当する機会がありました。

・視聴率81.4%は、紅白のみならずビデオリサーチ社が調査を開始した1962年以降で一番高い数字なのだそうです。

・最後に、この年の紅白は爆破予告がありました。草加次郎と名乗る人物から爆発物や脅迫状が郵送・設置される事件が当時多発していて、紅白にも予告状が来ていたそうです。特に島倉千代子や吉永小百合は被害に遭っていたので、警備も相当厳重になされたようです。最終的にはこのレビューを見て分かる通り、ほぼ何事もなくオンエア終了。当時テレビ番組の恒久的保存は全く考えられなかった時代で、実際前後の紅白は基本全く映像が残っていないのですが(一応前年は美空ひばりなどが歌う様子のニュース映像が残っています)、この年だけキネコで全編保存された背景は、もしかするとこれに起因していた部分もあったかもしれません。

 

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