紅白歌合戦・バンド出場歌手の歴史(1960年代・黎明編)

 本日から何記事かに分けて、出場回数の少ない歴代バンド系アーティストの紅白歌合戦を振り返ります。ピックアップする歌手は既にまとめた前編後編から取り上げる形となります。まずは前編から、少しずつ紹介していきます。ただし、便宜上前編にまとめたムード歌謡系は取り上げないこととします。

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

第17回(1966年)「青い瞳」

作詞:橋本 淳 作曲:井上忠夫
前歌手:加山雄三、ザ・ピーナッツ
後歌手:越路吹雪、アイ・ジョージ
曲紹介:宮田 輝(白組司会)

 初期の紅白歌合戦名言集解説で既に取り上げていますが、あらためてこちらでも紹介します。

 ジャッキー吉川とブルー・コメッツは前年にザ・ピーナッツ「ロック・アンド・ロール・ミュージック」の演奏で登場していますが(既にレビュー済)、歌手として紅白に出場するのはこれが初めてです。というより前年の大晦日時点ではあくまでバックバンド止まり、レコードデビューしたのは1966年2月。「青い瞳」は彼らにとって、最初のヒット曲になりました。

 宮田アナが紹介する後ろでメンバーが楽器を持ちながら入場。先にドラムセットの前に座っていたジャッキーさんの演奏からステージがスタート。ベースの高橋さんが、スピーカーの音を自ら調整する様子も映ります。

 まだマイクはメンバーごとに用意されない、白組歌手用に備え付けられた固定マイク1本のみです。井上忠夫・三原綱木・高橋健二の3人が楽器を手にしながら、非常にせせこましそうに歌っています。

 「この紅白歌合戦に、エレキバンドが出場するのも初めてのことであります…」と、間奏でテレビ実況が入ります。井上さんはサックス演奏、小田さんがキーボード演奏でカメラに映ります。ドラムのジャッキーさんは4人とは大きく離れた、スピーカーを挟んで司会者用マイクにほど近い位置にセッティングされての演奏でした。現在のように広々と使える舞台では全くなく、21世紀から見ると初めてならではの苦労が様々な面から伝わる映像になっています。当時も一応カラー放送ですが放送局が録画するにはテープがあまりにも高価、現在見られるのは宮田輝アナが自宅が録画したビデオを寄贈した白黒の映像です。

 ブルコメやザ・ワイルドワンズを筆頭にグループサウンズブームが起こり始まる1966年大晦日ですが、まだ歌謡界は和製ポップスとカバーポップスが共存する状況でした。1966年はビートルズ来日が大きな話題になった年で紅白でも数曲カバーで歌われています。オペラ歌手の立川澄人がこの年「イエスタデイ」を歌っていますが、井上さん(フルート)・三原さん(ギター)・高橋さん(ベース)がコーラス&演奏として参加しています。日本語詞で披露される1番の後半、立川さんがラララ…と歌う後ろで主旋律を3人で歌うという構成でした。

第18回(1967年)「ブルー・シャトウ」

作詞:橋本 淳 作曲:井上忠夫
前歌手:村田英雄、金井克子
後歌手:伊東ゆかり、菅原洋一
曲紹介:宮田 輝(白組司会)

 ザ・タイガースがデビューして社会現象を起こした1967年、数多くのグループサウンズがヒットします。「ブルー・シャトウ」はその代表的存在として、日本レコード大賞まで受賞しました。ザ・タイガース、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズなど3~4組くらい出場でも不思議ではない人気だったと思われますが、当時のNHK会長による保守的思考もあって紅白で見られたのはブルコメのみでした。長髪でなかったのが幸いした、とも言われています。ちなみに美空ひばりと「真赤な太陽」で共演して大ヒットしたのもこの年でした。

 「しかし何と言っても今年はやはりグループサウンズでございますね、話題としましては。若い方お好きでしょう、ね、はい。若い力の爆発を一つ聴いて頂きたいと思うんです。技術さん、またやりますよ、いいですか?針が飛ばないように一つ気をつけてね、爆発音でございます、ね。ブルー・コメッツの皆さんです。大賞に輝くコメッツの皆さん、「ブルー・シャトウ」どうぞ!」

 当時48歳の宮田輝アナがこう紹介します。一方ブルコメのメンバーはまだ全員が20代でした。グループサウンズに限らずバンドサウンドはまだ全世代に共有し切れていない新しい音楽で、例えばビートルズは保守派の論客から大批判されています。とは言え太平洋戦争がまだ二十数年前だった時代を考えると、若者とは違う世代からこういった意見が出ても不思議ではないような気も確かにします。一定の世代を境にした音楽観の違いは現在のネット社会で可視化が進んでいますが、55年前にもそういった論争が起こっていたことは間違いなく事実です。そう考えると、第9回を迎えた日本レコード大賞を「ブルー・シャトウ」が受賞したのは、その議論に対する一つの回答と言えるのかもしれません。またテレビにおけるバンドサウンドの聴かせ方は当時技術的にはまさしく模索中、それが曲紹介にもしっかり反映されています。

 この年の紅白歌合戦は舞台を一新、真ん中のスペースが広くなりました。マイクも前年のような集音式ではなく、メンバー1人ごとにスタンドとコードマイクがそれぞれ用意されています。配置も変わり、画面左からジャッキー・高橋・井上・三原・小田が並ぶ構成となりました。メンバーそれぞれのアップショットも間奏に挿入されています。当時の子どもたちが替え歌を作って歌うほど流行した大ヒット曲に相応しい待遇で、前年よりもはるかに充実したステージになりました。

 自ら演奏できるのは、演出側にとっても非常に好都合でした。この年も前半白組トリ・橋幸夫「若者の子守唄」で演奏を担当しています(ステージはレビュー済)。さすがに美空ひばりの演奏はかなわなかったですが(歌唱曲も演歌の「芸道一代」)、井上さんはこの2年後にサックス奏者としてステージにゲスト出演しています。

第19回(1968年)「草原の輝き」

作詞:橋本 淳 作曲:井上忠夫
前歌手:黒沢明とロス・プリモス、ピンキーとキラーズ
後歌手:ザ・ピーナッツ、西郷輝彦
曲紹介:坂本 九(白組司会)

 GSブームは1968年になっても続きますが、実を言うとこの年の年末くらいには既に過ぎ去ろうとしていた頃でした。ブルコメのヒットも前年の「ブルー・シャトウ」「マリアの泉」「北国の二人」ほどではなく、「草原の輝き」はこの年集計開始のオリコンで最高15位。その次に発売された「さよならのあとで」の3位が、最後のTOP10入りになっています。

 「恋の季節」で大ヒットしたピンキーとキラーズとは、紅白史上初のバンドサウンド対決となりました。先攻はピンキー、その後に曲紹介で登場する坂本九はなぜかメガネをかけています。

 「いやーねぇ。驚きましたねービックリしましたねー驚きましたねー、本当ビックリしましたねー。いま後ろでもってやってたの、あれ女性なんですかねヒゲ生やしてましたビックリしましたねー。でも良かったですね、こんなことやって良かったですねーとっても良かったですね。でもこっちはねカッコ良いんでいきますね。もうねどんどんどんどん雰囲気持ち上げちゃうんですね持ち上げちゃうんですねどんどん持ち上げちゃうの、名前もジャッキーっちゅうくらいです、どんどん持ち上げちゃうんですね。ジャッキー吉川とブルー・コメッツの皆さん、「草原の輝き」。聴いてください聴いてください聴いてください、聴いてください聴いてください…」

 文字起こしするとこんな感じです。やたら早口で声を裏返す独特の口調は、おそらく映画評論家・淀川長治氏のモノマネと思われます。ちなみに1998年に亡くなる直前まで長きにわたって解説を担当した『日曜洋画劇場』は、当時まだ出演3年目でした。

 さてステージですが、ピンキーが歌い終わると同時にセリでドラムごと上がってくるジャッキーさんが映ります。バンドセットは下手側紅組サイドにキラーズ、上手側白組サイドにブルコメが配置されています。2ステージ制で交互に演奏されるロックフェスをイメージすると、分かりやすいかもしれません。現在のように1ステージで入れ替わりではなく、紅組側と白組側でうまく使い分けるのが1980年までの紅白歌合戦の舞台事情です。

 この年ボーカルを担当する3人は左から井上・三原・高橋の順番、配置は紅白というより曲ごとに違うのかもしれません。エプロンステージで凹みに指揮者がいるという体制、前方に3人・後方にドラム・キーボード・スピーカーという舞台配置になっています。ボーカルを担当しない小田さんは映る機会が少なく、この年はジャッキーさんの横で演奏する姿が数秒映るのみでした。一方ジャッキーさんのショットは小田さんと比べると多く、アウトロはワンショット独占でセリで下がる所まで映ります。

 「結構でございました。なんたってあの、指のペロペロ…ってのがとってもカッコ良かったです井上さん。カッコ良かったって言ってるのにこっち向いてよ!」と紅組司会・チータが反応。演奏が終わりセット移動などバタバタしている井上さんには、チータのアドリブに応える余裕はなかったようでした。

 なお例年務めているバックバンドでの登場は、この年に関して言うとありませんでした。

 ブルコメの出場はこの年までで、バンドも1972年にメンバー入れ替えで大きく様変わりします。当時のメンバーは井上さんが作曲家転向で紅白にも多くの楽曲を提供、小田さん作曲の「すみれ色の涙」は第32回で岩崎宏美によって歌われました。三原さんはバンド指揮者に転向、ニューブリードの指揮者として第37回(1986年)から第66回(2015年)までほぼ毎年紅白歌合戦の演奏を担当することになります。

ピンキーとキラーズ

第19回(1968年)「恋の季節」

作詞:岩谷時子 作曲:いずみたく
前歌手:小川知子、黒沢明とロス・プリモス
後歌手:ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・ピーナッツ
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)

 ブルコメと曲順的に前後しますが、ピンキーとキラーズについても取り上げます。ソロ歌手として前年デビューした今陽子を売り出すため、レーベル移籍・バンド形式として結成されたのがピンキーとキラーズでした。7月20日に「恋の季節」でデビューしますが、これがたちまち大ヒットします。

 どれくらいヒットしたかと言いますと、オリコンチャート上で17週連続1位という記録を作るくらいの大ヒットです。オリコンのチャート集計が始まったのは1968年ですが、50年以上経った現在でもこれを超える記録は生まれていません。そこまでいくと、男女の縛りが厳しい紅白歌合戦にも選ばざるを得ない存在になります。つい5年前まではコーラスでさえも紅組で男性を使えないような厳しさでしたが…。ピンキーを紅組・キラーズを白組に分けるとか、今陽子だけをピンキーとして出演させる案もあったようですが、最終的には23組中5組を占める白組のグループ出場者の多さもあって紅組からの出場となりました。

 「今度の紅組はでございますね、お坊ちゃんお嬢さん、それからおじいちゃんおばあちゃん、ご一緒に歌って踊ってください。ピンキーとキラーズ、「恋の季節」!」

 バンドスタイルではありますが、ピンキーとキラーズはグループサウンズという部類には属していません。Wikipediaには「ボサ・ノヴァバンド」と記されています。バンドの演奏で最初にヒットした女性ボーカルの曲は、ブルコメの項にも書いた美空ひばり「真赤な太陽」だと思いますが、「恋の季節」もそれを意識して作られたと言われています。女性ボーカルでもこの前年辺りから和製ポップスの台頭が目立ち始め、「虹色の湖」で同じ年に紅白初出場を果たした中村晃子は一人グループサウンズとも呼ばれていました。

 黒いスカートではありますが、身長も女性としては比較的高い167cmの今さんはボーイッシュな雰囲気が強めです。紳士然としたそのルックスは、レコードジャケットからテレビ出演に至るまでの戦略でした。これもまた、それ以前のアーティストには存在しない新鮮さで当時は見られていたのではないかと思われます。

 1番終了後「キラーズ!」と呼びかけ、瞬時に間奏を演奏する彼らに向かうカメラワーク。こちらの4人は白いジャケットを着ています。帽子は白黒映像なので確実なことは言えないですが、なんとなく赤色のような気がします。その今さんは1番を舞台中央、間奏でエプロンステージの前に移動しての歌唱。当時の紅白において、舞台左側・右側でなく真ん中で歌う演出はそれだけ力を入れたステージであることを意味しています。元々長い曲ではありませんが、構成も2回歌う2番の歌詞を1回にする形で歌詞についてはカット無し。1968年を代表するヒット曲に相応しい堂々のステージでした。

 さて男性として初めて紅組に加わったキラーズですが、白組からは格好の標的にされてしまいます。歌唱後だけでなく、次の年に至るまで「男性なのに紅組にいる」と何度も攻撃されていました。特に初出場した第19回は演出面も配慮する形で、キラーズはステージ以外一切登場無し。オープニングの入場行進や歌手席の応援も参加を認めないという有様でした。

 ピンキーさんもなかなか酷い扱いを受けてます。園まりの歌唱後、「恋の季節」のイントロに乗せてピンキーとキラーズに扮してハナ肇とクレージーキャッツが登場。ピンキーに扮したハナさんが”忘れられないの~ 去年の紅白を~ 紅組勝ったけど~ 今年白が勝つ~”と歌い、他のメンバーが”ゴリラ~ 世田谷のゴリラ~”とコーラスを入れます。ハナさんは確かにゴリラとよく呼ばれていたと思われますが…。その後”世田谷のゴリラ!”と連呼しながら踊る間に演奏が止まり、ハナさんが帽子を取るとなんとハゲヅラだった…という内容の白組応援コントが入ります。

 台本などで本人も了承済だったようには見えますが、当時は紅組と白組でお互い何をやるか知らされていない証言もあるので、紅組歌手陣は本番で初めてこれを見た可能性も高いです。いずれにしても、現在の視聴者から見ると間違いなく炎上案件です(と言うより自分も2002年頃に初めて見た時は正直笑えませんでした)。今さんやチータ筆頭に、紅組歌手は当然ですがお怒りモード。「いくら私が太ってるったってね」と話す今さんに、「あんなもんじゃないですよね、失礼ですよ」とフォローするチータ。もっとも中尾ミエは、「体型は少し似てるけどね」と笑えるトーンでなかなかの毒を入れていました。ちなみに今さんは番組全体を通して紅組歌手席で応援、ハゲヅラでないことを証明するために取ったこの場面以外は終始トレードマークの帽子を身につけています。

 コント55号の2人に引っ張られて退場させられる前田武彦(この年放送開始の『夜のヒットスタジオ』司会)には「ピンキー助けてくれ!」と言われたりするなど、和田アキ子がデビューするまでは彼女がこういう扱いを受けがちだった面もあったようです。

第20回(1969年)「星空のロマンス」

作詞:岩谷時子 作曲:いずみたく
前歌手:中尾ミエ、内山田洋とクール・ファイブ
後歌手:フランク永井、ザ・ピーナッツ
曲紹介:伊東ゆかり(紅組司会)

 「さあ、全国の小さいお坊ちゃんお嬢ちゃんお待たせしました。ピンキーとキラーズ、「星空のロマンス」です!」

 「恋の季節」以降も「涙の季節」「七色のしあわせ」などが連続ヒット、この曲紹介によるとキッズ層の人気が高かったようです。ただ歌唱順はトリ4つ前で時間は23時16分頃、大晦日とは言えどれだけのお子さんがこの時間まで寝ずに待っていたのかはやや気になる所です。ちなみにキッズ層の人気と言えば、この時期は「黒ネコのタンゴ」「ドリフのズンドコ節」がまさに大ヒット中。解散する前年まで紅白出場は続きましたが、レコード売上はこの時期を境に大きく低下します。オリコンのTOP10入りも、8月に発売されたこの「星空のロマンス」が最後でした。

 楽曲の完成度は高いですが、曲そのものはムードたっぷりのザ・歌謡曲。今さんの歌声には伸びだけでなく艶や色気も備わっていて、キラーズのコーラスも味があって素晴らしい内容です。ただキッズ人気と言われると、こればかりは疑問符を持たざるを得ないステージであることもまた確かな内容でした。

 ちなみにこの次のステージは”低音の魅力”でお馴染みのたフランク永井「ピンキーとキラーズもそうですが、ジャズの唱法を日本の歌謡曲に取り入れ、ポピュラーを歌う我々後輩の壁を破り、そして明るい道を拓いてくれました」と、対戦側の魅力も取り入れて曲紹介に活かす坂本九の司会ぶりもまた秀逸です。

 なお前年ステージ以外に参加できなかったキラーズの4人は、この年無事出演が叶います。入場行進は不参加でしたがオープニングには合流、赤い鉢巻も締めて紅組歌手席を存分に盛り上げていました。

第21回(1970年)「土曜日はいちばん」

作詞:岩谷時子 作曲:いずみたく
前歌手:弘田三枝子、美川憲一
後歌手:ダーク・ダックス、小川知子
曲紹介:美空ひばり(紅組司会)

 映像が残っていないので、正直申し上げるとこのステージはあまり詳しいことは分かっていません。ただ1999年刊行のステラ増刊『紅白50年』に写真がカラー掲載されています。紅組歌手4名?が中南米スタイルの服装で、コンガの演奏に参加している様子も映っています。今さんは赤いスーツでキラーズはグレーのスーツ、もちろんこの年もトレードマークの帽子は健在でした。

 ちなみにこの年は黛ジュンも「土曜の夜何かが起きる」を歌唱。てっきり大晦日は土曜日かと思ってしまうところですが、実際は木曜日だったみたいです。

第22回(1971年)「何かいいことありそうな」

作詞:山上路夫 作曲:いずみたく
前歌手:南 沙織、にしきのあきら
後歌手:美川憲一、和田アキ子
曲紹介:水前寺清子(紅組司会)

 この年は紅組2番手という早い出番での登場でした。本来キラーズは演奏するところですが、この年はなんとバンド演奏なしでコーラスのみ。所定の紅組担当オーケストラ(原信夫とシャープス・アンド・フラッツ)が演奏を担当しています。ザ・ピーナッツ朝丘雪路いしだあゆみ弘田三枝子南沙織といった紅組歌手勢が、後ろで帽子を手にしながら踊る応援演出がありました。

 アウトロではリズムに合わせて”紅!紅!”とコールする場面もあります。楽曲もこれまでの3曲とは違う爽やかな明るい内容、ひと味違うステージ展開を見せていました。なお翌年2月に今さんがソロ転向して脱退、女性ボーカル2人を迎えて再始動しますがこちらはヒットせず1974年解散という形になっています。

 

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