紅白歌合戦・布施明の軌跡~ステージ編(1967~1974)~

 第18回(1967年)・第21回(1970年)・第22回(1971年)は番組全編の再放送がされておらず、応援他で出演した時の様子は確認できません。そのためステージのみの記述になることをご了承ください。

第18回(1967年)「恋」

ステージ

作詞:平尾昌晃 補作詞:水島 哲 作曲:平尾昌晃
前歌手:山田太郎、日野てる子
後歌手:三沢あけみ、ハナ肇とクレージーキャッツ
曲紹介:宮田 輝(白組司会)

 「次の歌い手さんから、日記帳を借りてまいりました。許しを得て読ませて頂きます。昭和42年1月1日のところ、日曜日だったんですね今年の元日は。

 今年もいつものように元日にこの1年の目標をたてる。1年の計は元旦にあり、だ。一、大ヒットを飛ばすこと。二、車の免許を取ること。三、紅白に出ること。

 こういう誓いを立てたという歌い手さんです。恋を歌わせたらこの人は天下一品と言われます。若いんですけれども、3つの願いが全部叶ってしまいました。この年でございます。「恋」、布施明さんです」

 1965年に「君に涙とほほえみを」でデビューした布施さんは、この年弱冠20歳で紅白歌合戦初出場を果たします。前年12月発売の「霧の摩周湖」が日本レコード大賞作曲賞を受賞するヒットになりましたが、紅白で選曲されたのはこの次のシングル曲「恋」でした。25回紅白歌合戦に出場している布施さんですが、残念ながら「霧の摩周湖」は一度も歌う機会が訪れない形となります。「おもいで」「霧の摩周湖」「恋」、この3曲は布施さんだけでなく、ロカビリー歌手として紅白にも3度出場した平尾昌晃が作曲家としてヒットした最初の作品でもありました。当時20歳なので戦後生まれ、これは白組ソロだと西郷輝彦三田明山田太郎に続いて史上4人目でした。

 特集番組などで振り返られる機会はありますが、この年の紅白は全編再放送がなされていません。残存している映像も白黒です。ややおでこが広めのヘアスタイル、20歳ですが声量など歌の上手さはもう織り込み済み。ただ後年の歌唱と比べるとやはり若々しく、当然ですが念願の大舞台初出場なので余裕のステージではありません。そういう意味で考えても、大変貴重な映像であることは間違いないでしょう。

第19回(1968年)「愛の園」

ステージ

作詞:山上路夫 作曲:平尾昌晃
前歌手:三田 明、佐良直美
後歌手:ペギー葉山、千 昌夫
曲紹介:坂本 九(白組司会)

 「さあそれでは、白組2番手登場は大変頼もしい方に出て頂きます。彼はこう言いました。紅組なんてなんのその、「愛の園」。布施明さん」

 派手な衣装を着る男性歌手は今でこそ珍しくありませんが、当時はほぼ100%スーツかタキシードか和服を着るような時代。1960年代の紅白歌合戦、白組で衣装に革命を起こしたのは、Gパンで登場した第17回(1966年)のマイク真木と20代前半の布施さんではないかと思います。

 この年の布施さんは詰め襟で、ドレスにもやや近い服装です。腹部には非常に大きなベルトが装着されています。白黒映像かつ画質も悪いので特定はしにくいですが、衣装には柄のような物もあり生地は黒もしくは濃い色のカラーリング。ただ50年以上前とは言え当時はカラーでも放送、熱心なファンならば憶えていてメモをした人もいるかもしれません。

 ステージは2コーラス、画面右側の白組歌手用マイクの前での歌唱でした(前年はコードマイク使用)。2番のサビは繰り返し有り、2回目は演奏を止めた後にテンポを落とし、締めに繋げる構成となっています。まだ2度目の出場で白組2番手という早い曲順ですが、かなり豪華なステージの締め方でした。

応援など

 オープニング・入場行進はメンズチャイナに近い真っ白な衣装で、首にペンダントのような物をかけています。多くの白組歌手がタキシードであることを考えると、やはり異彩を放っている姿に見えます。歌唱後はステージ衣装のまま応援席に参加、4番手・黒沢明とロス・プリモスの曲紹介時に最前列画面から見て左端に座っているのが確認できます。

 まだ2回目出場の若手ですが、その割に白組歌手の代表として名前が出てくる場面が多いです。初代・林家三平「布施さん三田さん明らかに勝つと思ってます」と名前にかけた白組応援の披露あり、また審査員・三船敏郎(言うまでもなく当時既に世界的スター俳優でした)からは「前半あの、布施さんなんてのは全身でもう、歌ってましたしねぇ」とお褒めの言葉がありました。

 後半は舟木一夫「喧嘩鳶」のステージで橋幸夫・森進一と一緒に火消し姿で登場、大きな纏を振り上げて応援します。「この纏は本物で大変重いんです。布施明さんでも持て余しています」とテレビ実況のアナウンサーから名指しされました(ただ他の2人と違ってアップの映像は無し)。

 デューク・エイセス「いい湯だな」では応援席にいる白組歌手全員が頭にタオルを乗せています。ただ先ほどの纏を掲げる応援があったのは2組前、曲がスタートしてからの合流だったせいかどうかは不明ですが、歌手席が映った場面では布施さんだけが頭にタオルを乗せていない状況でした。なお衣装はオープニングの時と同様、まだこの当時の出場歌手は応援を除くと衣装は原則ステージ用とそれ以外用の2着のみだったようです。

第21回(1969年)「バラ色の月」

ステージ

作詞:なかにし礼 作曲:平尾昌晃
前歌手:(オープニング)、青江三奈
後歌手:いしだあゆみ、千 昌夫
曲紹介:坂本 九(白組司会)

 イントロの演奏が始まってから、九ちゃんの曲紹介が始まります。ただマイクの音がやや小さく、一言一句正確には聞き取れません。この年は7月20日にアポロ11号月面着陸という大ニュース、その時に発したニール・アームストロングの名言が曲紹介に流用されていました。

 この年は3階建てのセットが組まれています。1階がステージ・2階からひな壇状に両軍の歌手席、裏側には1階から3階(歌手席最上段)までの階段が作られています(おそらく)。イントロ・曲紹介とともに階段を降りる布施さんは下半身まで生地が作られたような学ラン姿、ドレスを着る女性はともかく男性ではこれ以前にまず見られなかったようなファッションです。衣装の裾を持ちながら階段を降りる男性歌手は、おそらく紅白史上初めてではないかと思います(それ以後もあまり記憶にないです)。

 トップバッターという曲順・青春をイメージしたような衣装もあってステージは非常に爽やかです。固定マイク使用なので手の障害もなく、体全体でリズムを取りながら圧倒的な歌声で聴かせます。見ていても楽しさが非常に伝わってくるような名演でした。ヒットはしていますが、オリコン年間50位に入っていないのはやや不思議とも思えるくらい楽曲も完成度が高いです。

 大学紛争が最も盛んだった1969年のヒット曲は良く言うとムーディー・悪く言うと暗い曲が多く、当時のヒットの流れから外れている曲と言われればその通りだったのかもしれません。なお原曲は紅白のステージと比べるとテンポはかなりゆったり、テンポを速めていなければここまで爽やかな内容になっていなかった可能性もあります。

 衣装に関しては当時もおそらく話題になったのではないかと思われます。九ちゃんも歌唱後「出てきた時一瞬女の子かと思ってビックリしちゃったけど」とコメント、1969年の情勢を考えるとやはり革命的なステージ衣装だったのではないかと推察します。もっとも衣装のバリエーションは2年前と比較しても少しずつ増え始め、カルメン・マキがGパン+裸足姿で「時には母のない子のように」を歌ったのは同じ1969年・第20回のことでした。

応援など

 客席からの入場行進はあいうえお順、橋幸夫舟木一夫の間です。ステージ上に並ぶ姿が確認できますが、トップバッターで着替えが必要ということもあって遠目から見ても少しソワソワしている様子がうかがえます。この年の白組歌手はグループを中心に黒のタキシード衣装が半数以上、白い上着を着ているのは布施さんと司会の坂本九だけでした。オープニングのセレモニーが終わったのは本番始まって3分半後、ステージに出演する時間はこれより7分後となっています。なおこの年のオープニングは、NHKアーカイブスのページでカラーの写真が公開されています。

 トップバッターとして歌唱後は、再び白いタキシードで番組に参加します。白い服を着ていたのはその後も布施さんとステージ衣装の三田明くらいなので、全体を映す引きのカメラワークでもどこにいるのかひと目で分かる状況です。

 終盤、紅組トリ2つ前の佐良直美「いいじゃないの幸せならば」は歌手席の中で歌うステージでした。3コーラス目、”つめたい女だと…”と歌いながら迫る相手は布施さんで、鶴岡雅義と東京ロマンチカなど周りにいた白組歌手に冷やかされています。当時から非常に女性人気が高かった布施さんですが、最初の結婚は意外に遅く1980年のことでした。

第21回(1970年)「愛は不死鳥」

ステージ

作詞:川内康範 作曲:平尾昌晃
前歌手:デューク・エイセス、ちあきなおみ
後歌手:都はるみ、(中間審査)、舟木一夫
曲紹介:宮田 輝(白組司会)
指揮:宮川 泰

 特集番組で振り返られた映像では、歌う前に出場歌手全員が集まっている様子です。ゲスト登場など何かしらの応援があったと思われますが、全編の再放送がなされていないので詳細は不明です。「さあ、布施明くんに「愛は不死鳥」を歌い上げてもらいます。どうぞたっぷりとお聴きください」、テレビ実況では宮川泰の指揮がアナウンスされます。「この曲を編曲した」という紹介ですが原曲の編曲は小谷充、これはおそらく紅白のこのステージの編曲を指しているものと思われます。

 ステージ中央で指揮を振る宮川さんは、序盤から大変目立っています。演奏も同様で、オープニングから原曲よりもはるかに壮大な内容でした。階段を少しずつ降りて登場する布施さん、真っ白な衣装で登場します。

 これ以前の3回はメロディーが比較的くっきりした曲ですが、この曲の序盤は語るような歌唱です。これでもかというくらいに情感たっぷりに歌うことで、後半へ向けて高めていきます。

 ”青空高く”と高らかに歌う場面で、少しずつ両手を広げると無数の房が腕にぶら下がります。エルヴィス・プレスリーを模したようなその衣装は不死鳥がテーマ、これまでの歌番組では全く見られなかったデザインです。そのため披露した瞬間に客席から無数の拍手が巻き起こりました。ジュディ・オングがエーゲ海のようにドレスを広げるのは1979年でまだ先の話、こういった発想は女性歌手のステージでも考えられなかったことでした。もっともこの衣装を思いついたのは本番近くになってから、母親が徹夜で作り上げたというエピソードが残っています。

 このステージが後々語られるようになった理由は衣装もそうですが、極めて迫力のある演奏とそれに負けない布施さんの絶唱も大きな要因です。壮大なステージングと豪華な衣装が非常にマッチしていたのは、言うまでもありません。宮川先生のアクションも尋常ではないほど大きく、もし布施さんの衣装が普通のタキシードだったら完全に彼に飲まれていたのではないかと思われます。実際紅組司会の美空ひばりは、ステージ終了直後に宮川先生の動きを指して「腸捻転になるんじゃないかしら」と笑いながらコメントする状況でした。

第22回(1971年)「愛の終りに」

ステージ

作詞:島津ゆうこ 作曲:クニ河内
前歌手:橋 幸夫、真帆志ぶき
後歌手:弘田三枝子、鶴岡雅義と東京ロマンチカ
曲紹介:宮田 輝(白組司会)
指揮:宮川 泰

 「白の方は作曲の宮川泰さんの指揮で、「愛の終りに」布施明さんです」。宮田アナのアナウンスですが、こちらも正確には作曲ではなく編曲担当です。第20回・第23回~第25回のザ・ピーナッツを含めて、宮川先生は6年連続で紅白のゲスト指揮者として参加しました。原曲をより盛り上げるタクトと大げさな動きは1970年代前半の紅白名物で、藤山一郎先生亡き後第44回(1993年)以降は「蛍の光」の指揮も毎年担当します。いずれ宮川先生のみをテーマにした記事も作ることを考えていますが、「蛍の光」でも点滅する指揮棒を使ったり真ん中に出て来て誰よりも目立ったりするなど年を経るごとにパフォーマンスが派手になる傾向がありました。

 この年も持ち前の歌唱力を前面に押し出したステージです。ピアノ伴奏のみのアレンジから始まり、サビに向けて盛り上げていく構成は前回の「愛は不死鳥」と共通しています。立ち位置は布施さんがステージ真ん中・宮川先生が画面から見て右側の白組歌手席の真ん前。ただこの年の布施さんの衣装は前年のような派手なスタイルでなく、むしろ指揮棒に花を施した宮川先生の方が派手な状況でした。

第23回(1972年)「マイ・ウェイ」

ステージ

訳詞:中島 潤 作曲:J. REVAUX, C. FRANçOIS
前歌手:五木ひろし、青江三奈
後歌手:
水前寺清子、北島三郎
曲紹介:宮田 輝(白組司会)

 現在にわたって愛唱歌となっている「マイ・ウェイ」は、この年5月のシングル「愛すれど切なく」のB面で初めて収録されました。1967年にクロード・フランソワがフランス語の曲として発表、ポール・アンカの英語詞でフランク・シナトラが歌ったのは1969年。日本語で初めてこの曲を歌ったのは布施さんで、中島潤の日本語詞は当時20代前半だった彼に合わせて少し書き換えられています。この年は尾崎紀世彦も同様にB面収録で「ゴッド・ファーザー~愛のテーマ」を日本語詞でカバー、「マイ・ウェイ」と同様こちらも紅白歌合戦の歌唱曲になっています。

 「この年も色々なことがございました。しかし、色々な場合に私たちは自分で選んだ道を歩んでまいります。「マイ・ウェイ」、布施明さんです!」。6回目の出場で堂々のトリ前、宮田アナの曲紹介も終盤らしい内容です。なおクレジットは、訳詞の中島潤が中島淳と表記されています。

 ピアノ演奏のみで入るオープニング、コードマイクを手にしながら歌い、階段を降ります。コードがその階段に絡まって引っ張られそうになる場面もありましたが、落ち着いて処理。弦楽器の音が入り、やや速めのテンポで美声を聴かせます。

 サビではコーラスも加わって、盛り上がった演奏になります。管楽器の音もやや大きく若干邪魔なくらいでしたが、布施さんの歌声はそれをはるかに上回っています。繰り返しのサビは少しテンポを落とし、アウトロで速める終盤の構成。会場はスポットライトのみで暗転、左胸につけた赤い薔薇だけが光っています。

 実況担当からは「胸に400個余りの電球の薔薇をつけております、布施明さんです」のアナウンスがアウトロで入りました。ただ顔のアップ中心のカメラワークと衣装に目が入らないほどの大熱唱で、正直あまり目に入らなかった人も多かったのではないかと思われます。一応2回目のサビで、点滅している様子は確認できます。

 後年の紅白歌合戦でも2度歌っていますがいずれも壮年期なので、その時の「マイ・ウェイ」とはまた異なる良さがあります。ただ第26回(1975年)の野口五郎「私鉄沿線」もそうでしたが楽曲の内容と比べて演奏が張り切っている感もおおいにあり、その辺りは賛否分かれる部分もあります(というより個人的にもうちょっと抑えた方が好み、という感想ですが)。

応援など

 この年のオープニング衣装は白いタキシードを着用しています。黒色タキシードだらけだった3年前と比べると、赤やピンクの衣装を身にまとった歌手もいて幾分白組もカラフルになっているようです。

 1970年代の後半と比べると、この時期は出場歌手がステージに参加する場面は少なめです。布施さんが目立っていたのは堺正章のステージ、沢田研二西郷輝彦菅原洋一と左右に移動して変なポーズをひたすら繰り返すダンス?を披露した時くらいでした。歌手席がセットの両端に配置されたため、ステージの合間で映るシーンがこの年に限って言うと1960年代後半~1970年代前半と比べて非常に少ないです。

第24回(1973年)「甘い十字架」

ステージ

作詞:安井かずみ 作曲:加瀬邦彦
前歌手:(オープニング)、小柳ルミ子
後歌手:いしだあゆみ、西郷輝彦

曲紹介:宮田 輝(白組司会)

 NHKホールからの放送となった最初の紅白歌合戦、白組トップバッターの大役を担ったのは前年トリ前の布施さんでした。「私たち男性チームはこの1年全国の方々に大変ご支援を頂戴致しました。今日は感謝の念を込めて歌いあげたいと思います。まず男の情熱の歌、布施明さんです。「甘い十字架」」。選挙演説のようにも聴こえる宮田輝の曲紹介ですが、実際翌年は参議院選挙に立候補して当選。そのため15回務めた紅白歌合戦司会はこの年が最後となっています。

 「毎年色々と趣向を凝らしたスタイルの布施明さん。7回目の出場でございます。今年のスタイルをまずご覧ください」、冒頭のテレビ実況でこのように紹介されます。階段から降りた布施さんは黒いマント風の上着と紫色の帯・白いズボンで登場。左手にコードマイク、右手に紫色の花束を持っています。勇壮なコーラスが入るオープニング演奏にはテレビ実況のアナウンス、それが終わってから本来のイントロ演奏に入ります。

 4年前の「バラ色の月」と同様、このステージも原曲よりやや速いテンポで盛り上げる内容です。少し気になるのは構成で、1番の途中から急に2番の歌詞に切り替わりました。”ふたりのみつめる ろうそくが”を”グラスには”に変え、そこから1番に戻るのではなく2番に移行する形を取っています。最後まで2番を歌い切るかと思いきやサビ後で1番に戻り、そのまま2番繰り返しに移行するスタイルでした。ちなみに当時の本放送で歌詞テロップは存在せず、元々そういう予定だったのか瞬時に間違いに気づいて修正したかどうかは不明です。

 早い段階で紫色の花束を客席に放り投げ、以降は体全体を使った熱唱ステージとなります。元々サビは高音が続く上に息継ぎのタイミングも難しい曲ですが、ここではテンポアップしたことで特にブレス難度がさらに上がっています。普通の人なら絶対息が続かなくなるような状況なのですが、それをよりダイナミックに魅せる部分が歌手・布施明の凄さ。ラストは9秒にわたるロングトーン、トップバッターとは思えないフィナーレも加わり、最後の挨拶まで非常に絵になる名演中の名演でした。途中で上着を外すシーンも、様になっています。

応援など

 この年も歌以外で目立つシーンは布施さんに限らず少なめ、橋幸夫「潮来笠」で三度笠姿の旅芸人に扮する場面くらいでした。

第25回(1974年)「積木の部屋」

ステージ

作詞:有馬三恵子 作曲:川口 真
前歌手:五木ひろし、ザ・ピーナッツ
後歌手:いしだあゆみ、春日八郎

曲紹介:山川静夫(白組司会)

 「ちょうど積木を積み上げるように、一年また一年と積み上げてまいりました。歌唱力の布施明さん、「積木の部屋」をお聴き頂きましょう」

 「積木の部屋」はデビュー年以来の大ヒットを記録、レコード売上はこの年の年間9位となっています。そして新人賞以来長く音楽賞に縁のない「無冠の帝王」と呼ばれた状況が続いていましたが、この年日本レコード大賞歌唱賞を受賞。同年に初開催となったFNS歌謡祭でも、初代の最優秀歌唱賞歌手に選ばれています。

 いよいよファッションではなく歌唱力が曲紹介でアピールされる時期に入りましたが、衣装もまた特徴的です。光り物の刺繍も入るカジュアルなセーターに白いベレー帽、このスタイルも紅白ではこの年の布施さん以外に見られないファッションです。独創的ではありますが奇抜ではなく、センスの良さと気品に満ちた美しい姿です。

 ただこの曲・このステージ最大のポイントはやはりファッションではなく楽曲・歌唱です。物語性に満ちたこの曲はキーの高さ・歌詞表現・メロディーともに普通の人には歌えないような難しさですが、それを豊かな声量と持ち前の包容力で完璧に歌いこなしています。歴代の紅白歌合戦を通しても、この年の布施さんは特にコンディションが良く歌声がより響いているように聴こえます。マイクと口の距離も、前年までと比べてやや遠くなっているように見えます。

 1コーラス終了時点で巻き起こる拍手、ロングトーンの長さ、原曲には存在しないクライマックスの転調、そしてアカペラで表現されるラスト。”すべて”のワンフレーズに切れ目が存在しない、14秒息継ぎ無しで全く音がブレないロングトーンは、「歌手の鑑」とまで言い切りたい紅白史上に残る名歌唱でした。翌年さらに大ヒットを記録しますが、「甘い十字架」「積木の部屋」「愛の詩を今あなたに」の名演がその要因の一つであることは言うまでもない事実でしょう。

応援など

 何と言ってもこの年は、「布施明 お尻の下は すぐかかと」という名?フレーズが飛び出したことでも有名な紅白です。この顛末については本編レビューでも記しているので、そちらもご覧ください。目の大きい?菅原洋一の曲紹介で、一緒に登場したのは声の小さい?森進一・鼻の大きい?北島三郎・目の大きい?五木ひろしでした。そのフレーズが飛び出した瞬間かなり強めに山川アナの頭をどつく布施さん、演技ではあると思いますが表情は少しお怒り気味のご様子です。

 オープニングから例のシーンまでは黒いスーツ、橋幸夫のステージでは前年に続いて旅芸人姿を演じています。歌手がコントなどバラエティ番組でも目立ち始める時代、この年以降布施さんも合間の出演が格段に増加しますが、それはまた次回以降に記していきたいと思います。

 

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